高岡英夫「究極の身体」

サイトマップ

高岡英夫「究極の身体」運動科学総合研究所

  • トップページ
  • 本について
  • 高岡英夫の対談
  • 書籍連載
  • プロフィール

ホーム > 書籍連載

  •  書籍連載過去一覧


  •  『究極の身体』を読む
     身体の中心はどこにあるのか
     目次


  • はじめに


  • 1時間目
    「序章」を読む
  • ・20世紀はスポーツの時代
  • ・人間というのはどこまで身体運動能力を高められるだろうか
  • ・高岡はなぜ、スポーツではなくマイナーな武道なんてものをやっているの
  • ・身体運動の本質
  • ・”究極の身体”は存在するのか?
  • ・”究極の身体”の定義
  • ・ポーラ・ラドクリフとエリマキトカゲ
  • ・自然と文化「二重環境論」
  • 2時間目
    「組織分化」を読む
  • ・究極の身体とレギュラーの身体の違いはなにか
  • ・高岡英夫の背骨感覚
  • ・より筋肉らしい筋肉とは
  • ・脛骨・腓骨の分化
  • ・上半身の組織分化
  • ・幼少期の高岡英夫の人物図
  • ・手脚はジョイント
  • 3時間目
    「脱力と重心感知」を読む
  • ・ビールを上手に注ぐ=〝極意注ぎ〟のメカニズム
  • ・中心制御と末端修正
  • ・〝究極の身体〟の水準で考える脱力
  • ・高岡英夫、被制御系運動でカボチャを切る!
  • ・道具を使わない被制御系運動
  • ・二種類のセンター「垂軸」と「体軸」
  • 4時間目
    「背骨」を読む
  • ・「三次元のズレ」がテニスのトップ・スピンを可能にする
  • ・手脚がなければ背骨が器用に動く!?
  • ・なぜ〝究極の身体〟になるのは難しいのか
  • ・進化論上、人間の身体のポジションはどこにあるのか?
  • ・『究極の身体』第3章「背骨」で高岡英夫が伝えたかったこと
  • 5時間目
    「多重中心構造論」を読む
  • ・人類はむかしから「中心」が好きだった
  • ・人間存在は相対的
  • ・身体と身体意識の中心
  • ・身体意識にとっての中心
  • ・身体と身体意識の多重中心構造
  • ・究極の身体の中心とレギュラーの身体の中心
  • 6時間目
    クライマックスとしての補講
  • ・続・背骨
  • ・人間にとって拘束とはなにか?


  • おわりに


書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

高岡英夫『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 高岡英夫自身の講義を実況中継!
  • より詳しく、より深くスリリングに「究極の身体」を体感してほしい
  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
  • ※現在は、販売しておりません。

<<前の回へ

第38回 最終回(2009.03.24 掲載)

(前回からの続き)おわりに

さて次はもうひとつのキーワードである「運動進化論」の話をしましょう。

私たちは人間と他の動物たちを見比べたとき、「知恵は人間が一番だ」と絶対的に信じています。これは普段の顕在意識に上ることはないにせよ潜在意識下では誰もが思っていることです。でも一方で「動物ってなんてきれいな存在なんだろう」とか「動物はなんてすごい動きをするんだろう」とも思っています。これらの思いはときどき言葉として発せられるので、顕在意識にも上ることです。

たとえば、ジャーマン・シェパードやドーベルマン、アイリッシュ・セッターなどの犬を飼ったり、あるいは飼わなくても散歩をしているそれらの犬を見たときついつい目が追ってしまうという人は、いったいなにに惹かれているかというと、それはやはり第一にその犬の姿や動きの美しさ、つまり身体の高機能ということに惹かれているのです。同じように、泳いでいる魚たちや飛んでいる鳥たち見ても「すごいな」と感じているはずです。

では自分自身はというとどうでしょう? 人は自分の身体のことを忘れようとしています。つまり自分の身体というものの劣等性や相対的な意味での見苦しさというものから目を背けるようにしているのです。

しかし「運動進化論」の視点から見れば、そういう魚類から発して爬虫類、四足動物、そして人間に至るまでの進化の歴史上獲得した、高機能を備えた重要な構造は、人類のDNAにもきちんと保存して伝えられているのです。つまり人間は発揮さえすれば、魚類や爬虫類、四足動物の持つ優れた能力というものを、体現できる存在なのです。

もちろん、人間は地上で生活する生き物ですから、魚のようなエラはありません。でもそれは地上で暮らしている人間にとって重要ではない機能だから捨ててきたのです。

人間の身体というのは、魚類の持っているような体幹部の左右方向への波動運動と、チーターなどの四足動物が持っている前後方向の波動運動を見事に行える構造になっているのです。でも多くの人々はそうした人間の身体に備わっている機能を、まったく使わずに普段の生活を送っているはずです。

一方で人間は、安定的に長時間直立を維持できるような下肢と、稼動範囲が非常に広い肩関節とそれと連動するようにできあがっている手の構造によって、動物が行えないようなさまざまな手・腕による作業を行えるようになっています。この人間特有の手脚の構造・機能と、魚類や四足動物が持っている波動運動とが連動することで、クラシックバレーのマイヤ・プリセツカヤの動きやマイケル・ジョーダンのプレー、あるいはたいへん見事な蕎麦を打つ市井の蕎麦打ち名人だとか、見事な美容師、見事な外科医や歯医者etc.のまさにあらゆる分野の超トップレベルの身体運動が成立しうるようにできているのです。

ただし、原著(『究極の身体』)でも書いたとおり、人間の四肢とそれを深奥から支える体幹部の運動というものを100%開発しきった人物というのは、歴史上まだひとりも現れていません。まさにその開発しきった幻の存在こそ、真の意味での“究極の身体”ということになりえるのです。

したがって、歴史上どんなに優れた存在でも、その人は厳密にいえば“究極の身体”に近づきつつあった存在だったと考えるのが自然だと思います。

つまり人間の身体にはそれだけ大きな希望があるということです。したがって「見苦しい」とか「考えないようにする」必要など微塵もなく、進化の歴史上もっとも見事な可能性を与えられた、いわば進化の頂点にいる存在が、我々人類の身体なのです。だとしたら、「この頂点にある身体というものを開発しきらずにどうする」というのが私の考えなのです。

これまで見てきたとおり、DNAの段階で進化の歴史上高機能を約束する身体の構造・機能は、はっきりとわれわれ人類の身体に継承されているのですから、そうした身体を開発しきる以上に幸せなことはないはずです。なぜなら、構造・機能を持っているのにそれを使わないというのは、単に使わないだけでなく、それを使わせないような生き方、あるいは生活のスタイル、考え方、環境、教育、知識etc.によってすべてが閉塞的にふさがれているからです。

だから、せっかくの身体を開発しきれない、あるいは開発するという発想が生まれないというそのこと自体が、人間の不幸というものを根本的に作り出しているのです。

私は人間が進化の歴史のなかで与えられたこの高度な可能性というものを開発しきることは、進化の歴史上いわば人間の使命だと考えています。そして、それが人間の幸福というものを根本から作り出す論理であり、メカニズムであり、考え方だと思うのです。

そしてここで「運動進化論」から到達した考え方というのは、先ほど第一のテーマとして語った「身体資源論」の結論とも完全に合致するものなのです。

というわけで、人間は幸福になれるように生まれついている、と私は考えています。だからあとはこうした考え方にしたがって、自分自身を開発する時間を持つかどうかです。開発するための思想、知識、方法というものは確立しつつあるわけですから、これからの時代、労働力と時間というものを作り出して自分の身体に向かっていくということが、地球環境と時代の問題、そして進化の歴史の問題という両方の問題を一度に解決していく新しい時代の生き方や生命思想、生活思想になっていくと考えています。

最後に、本書の出版に際して、藤田竜太さん、編集の作間由美子さん、飯嶋洋子さんのお力添えをいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

2003年7月吉日

高岡英夫


<<前の回へ

▲このページのトップに戻る


Copyright © 2003 Hideo Takaoka 運動科学総合研究所 All Rights Reserved.

|トップページ|本について|高岡英夫の対談|ネット出版書籍連載|高岡英夫プロフィール|運動科学総合研究所|サイトマップ|

Copyright © 2008 ULTIMATEBODY All Rights Reserved.