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マルクロ武蔵論

【発売たちまち増刷決定!】

高岡英夫の新刊には書けない裏話「マルクロ武蔵論(4)」

  • 高岡英夫[語り手]
  • 運動科学者。「ゆる」開発者。現在、運動科学総合研究所所長、NPO法人日本ゆる協会理事長・推進委員。東京大学、同大学院教育学研究科卒。東大大学院時代に西洋科学と東洋哲学を統合した「運動科学」を創始し、オリンピック選手、芸術家などを指導しながら、年齢・性別を問わず幅広い人々の身体・脳機能を高める「ゆる体操」「ゆる呼吸法」「ゆるウォーク」「ゆるスキー」「歌ゆる」を開発。

一流スポーツ選手から主婦・高齢者や運動嫌いの人まで、多くの人々に支持されている。大学・病院・企業などの研究機関と共同研究を進める一方、地方公共団体の健康増進計画での運動療法責任者も務める。ビデオ、DVD多数、著書は80冊を越える。

マルクロ武蔵論(4)(2009.05.26 掲載)

(前回のつづき)完全口述方式といったって、そもそも全ては口述ですから、原稿の形になるように文章を起こしてもらって、それに私が私らしい文体にするために、次々と直しを入れていくわけです。そこからさらに実際の本の版面通りにレイアウトしてもらい、見出しやら、ノンブルやらが入ってきて、一部の写真とか、解説図とかところどころ入っていない状態の、最初の校正刷り=初校ゲラをチェックしていくわけですが、その初校が今回の仕事の山場だと思ってたんですよ。何か予感してたんです。別にこれといった理由もなく、そこが山場だって。

初校の2回目が一番の山場だなと予感してたところ、それが予想を越えてものすごい重量感だった

でも普通に考えれば、どう考えたって山場は口述のときのはずですよね。つまり完全口述方式ということは、そのまま文章を起こしもらって、それを原稿として出してもらってもいいわけですから。部分的にはしゃべり言葉になっている部分があったりするわけですが、その時点での認識からすれば、内容・表現とともにほとんど完成状態なんです。だから普通に考えれば、口述をするときが一番の山場になるはずなんですよね。

でも口述のときは、山場という感じがしなかった。なぜかその時点から、初校が山場だと感じてしょうがなかったんです。実際の初校の期間は10日間くらいでしたが、10日間といったって、一日通してこの作業にかけられる日なんてほとんどなかったので、たくさんの仕事の合間合間に、たとえば出張先に持っていったり、新幹線の中でやったり、そのようにやりくりしながら、まずは1回全体を通してやりました。でもそのときは、まだ重量感は少しだったんですよ。まだ山場が来ていなかったんです。しかし、今回の初校は、どうしても2回通してチェックをしたかったんですよ。

それで初校の2回目をやったんですが、それが丸2日間かかりましたね。起きてる時間のやっと6割弱ぐらい使えましたですかね。一日が14時間くらい、もう一日が途中で別件の仕事とプライベートなことで大きな邪魔が入ってしまったので8時間ぐらいで、正味合わせて22時間ぐらいになるでしょう。

私にとって、初校の2回目が一番の山場だなと予感してたところ、それが予想を越えてものすごい重量感なんですよ。どんな感じかっていうと、鉛とか金とか銀とか何でもいいんですけど重い物質があるじゃないですか。でも水銀や鉛っていうと毒ですから、想像も嫌なんでやめましょう(笑)。比重(※)が15とか、20もありそうな物体が溶けていて、つまり液体化していて、その中を通っていく感じなんですよ。斜め上に向かって、進んでいく感じですね。それって、想像しただけでも重そうでしょ。

※比重とは、ある物質の密度(単位体積あたり質量)と、基準となる標準物質の密度との比のこと。通常、固体及び液体については水(温度を指定しない場合は4℃)を基準とする。

進まなくて、圧力で潰されそうになりますよね。しかも斜めですから、ズルズル〜って重量感で下がってきちゃう感じですよね。そこを進んでいくんです。実際の実感をお伝えするのにもう一つお話しましょう。

骨や筋肉や内臓やら、さらにはもっと微細な繊維や細胞など全身の各パーツがあるでしょう。そういうものたちが一つずつ全部重みの中を通ってるような感じなんです。まんべんなく、身体の中まで重みに押しつぶされ、押し流されそうになりながら進んでいく感じですかね。典型的に身体の実感から来る、身体と直結している精神の実感はそうなんですよ。

私が校正している間ずっと、まるでその場にいるかのように武蔵の存在を身近に感じていた

それともう一方で、武蔵の存在っていうのが、すごく身近に感じられるんです…。どのくらい身近に感じるかというと、私が座って仕事してるすぐ右後ろ、僕にピタッと触れるぐらい、つまり僕が後ろに手を出したら触れるぐらいのところに感じるんですよ。武蔵の存在を。

その武蔵がどのくらいの存在感かというと、本当に人がいるのと変わらないんですよ。まるでその場にいるかのようなんです。だから彼の呼吸とか、どんなふうに物思いに沈んでるとか、いきいきと躍動しているとか、身体の状態から心の状態までが、そばにいる人のように伝わってくるんです。その彼がたいへんな期待をしていると私には伝わってくる。期待しているがゆえに、そばに来てくれている感じが私にはするわけですね。

それと同時に、一方ではたいへん心配してるんですよ。期待と同じくらい、彼は心配している。その心配している様子が、私がずーっと校正しているプロセスの中で、高まったり、静まったりしながら、一緒になって変化しているのが伝わってくるんです。私が難しいところに出くわして、ガチンコで原稿を書き直しますよね。「これは…、いかん。このままじゃいかんのだよ。このままでは、ちゃんと私の考えていることが伝わらない。私の考えてることは、『五輪書』の解釈として正しいと思うんだけども、これでは伝わらない…」というように、どうやったら伝えられるか、というのを一緒になって本当に心配してくれているんですよ。

そのうち私が「これは」と、記述の間違いに気がつくんですよね。口述なので、すべてが絶対に正しいと思ってるわけではないのですが、ちゃんと口述できて文章としてきちんと書けているよなぁと思ってたところを、何回か読んでいく過程の中で気が付くんですね。「あっ、まずいぞ。これは違ってる」と。すると、そばにいる武蔵がもう固唾を呑むわけですよ。この本の紙幅に収められるかなぁと。それでも「正しいのはこうだな」とわかってくるわけですね。でも、それを書いていったら、すごい文章量が増えちゃうんですよ(笑)。5行で済んでたところが、3ページになっちゃう。つまり5行で書けてたのは、間違っていたから5行で書けたわけですから。

非常に重要で、緊張極まる仕事をしている最中には、本当に不釣合いな人物が訪ねて来てしまった

正しいところが見えてきたら、とてもじゃないけど3ページも文章が必要なんですよ。どんなに縮めて書いても3ページ必要なんです。のんべんだらりと書けば、一章くらいになっちゃう。「どうしよう。書けるかなぁ、俺(笑)」ってなるわけですよね。下手な書き方して縮めて書くと本当に大事な箇所が消えていくわけです。その一箇所の書き直し作業で、3時間ぐらいかかってしまうところもありました。私はずーっとガチンコで、頭が冴え続けたまま書き直し作業をやり続けるわけですよ。「こう書いてみるか…」、それでもう一回認識し直してみる。さらにもう一回、『五輪書』の該当箇所を読んでみる。ついでに関連した箇所も一緒に読んでみる。「やっぱりこう書くのはまずい。これはだめだ。じゃあここは縮められないなぁ…。こういうふうには書けない。うーん、どうしよう、どうしよう」と、延々とやっていくわけです。そのとき武蔵は、まるで呼吸を停止しているかのように固唾を呑んで、ずーっと一緒になって覗き込んでくれていましたね。

ところが2日目の夕方になって、もうあと残り50ページくらいのところだったと思います。非常に重要で、緊張極まるこのような仕事をしている最中にとって、本当に不釣合いな人物が訪ねて来てしまったんですね。これがまたその人の縁で「私は今こういう仕事をしているので、帰ってください」と言う訳にもいかない。だからといって、私が相手に対して恩や借りがあるとか、そういう関係では全然ないんですよ。だけどむげに帰すわけにいかないし、「本当にまいったな〜」という感じでしたよね。

校正が終わって顔をあげたら、スーッと全く重量感がなくなった。武蔵の存在は私にとって間違いなく一つの実感だった

それで2時間くらい戦列を離れて、そちらの仕事を片付けてから、また戦列復帰したんです。そしたら彼が遠くにいたんです。たぶん10mぐらいでしょう。斜め後ろに離れているんですよね。そうしたら、非常に重量感が薄いんですよ。「重量感薄いなぁ、楽だなぁ。こんなに戦列に復帰するのが楽だなんて、楽勝〜♪」みたいな感じで再スタートしたわけです。楽にスイスイ進むんですよ。でもしばらくして、そこで僕はふと「これは…、真髄に迫ってないじゃないか」と気が付くんです。それでもう一回がっぷり四つに組み直して、原稿の頁を元に戻して書き直し作業をやり直したんですよ。

そしたら、また重量感が出てきたんですよ。「重い、重い」と気が付いたら、私の右腿から腰にかけて、ぴったり、まるで息遣いが聞こえてくるように彼の左膝から腿にかけてがくっついてるんです。そして、ついにそのまま一瞬の間も抜けることなく書き直しをやり切りましたよ。ちょっと問題になりそうだなと思うところを数箇所書き留めておいて、やり切って終えることができました。

最後のページが終わった瞬間から、「これでよし」と思うところまで5分くらいかかったんですが、その間しばらく重量感はあったんです。でも、それが終わって顔をあげたら、スーッと全く重量感がなくなった。何にもなくなった。僕の横にも、斜め後にも、武蔵の存在が何にも感じられなくなったですね。

これを人によっては「霊」とか何とか言うのでしょうが、私はこうした形での「霊」の存在を認めておりませんから、私にとってはそれは間違いなく一つの主観にすぎません。人を対象とした認識研究が極めつきに深く真髄に迫った時にのみ生起する、特異な脳機能の副産物として派生する「主観」だと、考えているんです。たとえどんなに強烈な体感をともなったものであっても、というより正しくは強烈な体感をともなうことなしには存在し得ない「主観」であることに、重要な意味が隠されているのだろうと、思っているんですけどね。

当然のことながら、武蔵研究は私にとって、これで終わったわけじゃありません。歴史的な意味でも武蔵はこれほどまでの存在ですから、真髄に迫れたかもしれないと言っても、それは終着点では決してないでしょう。しかし、私の人を対象とした仕事の歴史の中でも、また武蔵が亡くなって以降、四世紀に近づいている日本の歴史の中でも、最も真髄に迫る真髄に迫る仕事にはなり得たのではないかというふうに、考えています。しかしその評価は、ぜひ読者の皆さんにしていただきたいし、本質的には今後数百年の歴史がなす作業ですけどね。

-完-

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