高岡英夫の新刊には書けない裏話「マルクロ武蔵論(3)」
- 高岡英夫[語り手]
- 運動科学者。「ゆる」開発者。現在、運動科学総合研究所所長、NPO法人日本ゆる協会理事長・推進委員。東京大学、同大学院教育学研究科卒。東大大学院時代に西洋科学と東洋哲学を統合した「運動科学」を創始し、オリンピック選手、芸術家などを指導しながら、年齢・性別を問わず幅広い人々の身体・脳機能を高める「ゆる体操」「ゆる呼吸法」「ゆるウォーク」「ゆるスキー」「歌ゆる」を開発。
一流スポーツ選手から主婦・高齢者や運動嫌いの人まで、多くの人々に支持されている。大学・病院・企業などの研究機関と共同研究を進める一方、地方公共団体の健康増進計画での運動療法責任者も務める。ビデオ、DVD多数、著書は80冊を越える。
マルクロ武蔵論(3)(2009.05.19 掲載)
(前回のつづき)それをひっくり返していうと、武蔵にはそのような読書者としての能力があったわけです。彼も様々な書籍を当然読んだでしょう。実際に今残ってる五輪書は書き写しなので、彼の真筆(その人が本当に書いた筆跡のこと)は残っていないのですが、もし残っていたとすれば、もっとはるかに卓越した筆致に高雅な文章だったはずなんですよ。
武蔵は一字一句全部を理解していなくとも、行間から、さらには本の向こう側から真意を受け取ることができたはず
武蔵は独学ながらも、たいへん学問のある人で、非常に優秀な男でした。彼にとって本を読むということは、多くの場合、一字一句全部、つまり部分部分で全部を理解して「これはこう書いてあるな」と全部解釈し切った上で、その理解した部分同士を精細に比較しながら矛盾がないか確かめたり、整合性をつきつめながら行ったり戻ったりして、一冊の本を何十時間、何百時間もかけて読んでいくわけじゃなかったはずです。
でも普通、研究者はそうやって読んでいくわけですよね。だからといって、そうやって読んだ結果、その本の真意が伝わるかといったら、そうとは限らないんです。とくに彼のような人物が書いたものは。
乱読とはまったく違いますが、ダーッと身も心もゆるゆるに解放し切ってセンターに身を任せた状態で読んでいく。ちょっとひっかかったりするところがあれば、ますますゆるみ切ってチョットだけ細かく読んでいく。「これはなんだろうなぁ」とか、「うん、こういうことかなぁ」くらいの理解で、また先に進んで行く、というようなことをずっとやっていった結果、読み終わってその本を置き、一呼吸、二呼吸の間に、ワァーッと伝わってくるものがあるわけです。書籍で書かれている題材によって、またどういう立場の人、どういう専門の人が書いているかによっても違うわけだけれども、著者がいいたいことがまさに行間から、さらには本の向こう側から伝わってくるわけですよ。だから『五輪書』を執筆した際にも、当然そういうことを期待して、武蔵は当たり前のことを書いたと思うんですよ。
武蔵のゆるみ方や身体意識、身体のあり方、動き、剣技というものは『五輪書』から得られていた
だから当然ながら、僕の1990年代前半までの読み方は間違っていたわけじゃないし、僕もそれでいいと思って、ダーッとゆるゆるにゆるんでセンターを通しに通して何度も何度も読んだんです。部分部分でわからないところもいっぱいあるんです。だけど、そのまま書を置く。すると私自身の中で、沸いてくるものがあるんですよね。その思いというべきか、体の感じというべきか、思いと体の感じが融合したようなものだったと思いますが。
「ここに武蔵のセンターが通っていた。特にここは強かった。上中下丹田はこういう出来だったんだなぁ。ゆるみ方はこうだ。体の中で一番ゆるんでるのはここだな」とか、次々に沸き出てくる思いと感じの融合情報を、一つ一つを追究しながら、武蔵の身体と意識を体現して立ってみる。「あぁ立っているのはここで立っているんだ。重心はこの位置だなぁ」と考えながら、また動いてみる。すると「あぁ、動きはこうだな」とか、「踵はこう使われるんだ」「肋骨はこう抜けるんだ」ということが、非常に素直にそのままの状態で次々と自分のものに置き換わってくるんですよ。そうやって何時間も続くんです。木刀を手に取っても続くんですよ。長いときは食事を取るのも忘れて、7時間も8時間もぶっ通しそういう状態が続く。そのような読み方がありうるということです。
武蔵は当然、私のそのときの状態以上の水準にいた人ですから、そんなことはもうあまりにも当然のこととして、彼の常識にとっても常識中の常識「いろは」の「い」のさらに手前だったはずです。だから、これだけ書いておけば伝わるだろうと、こういう読み方というか受け取り方のできる読者が現れれば伝わるだろうと、このように思った部分もあったんでしょうね。ただし、当然これと真反対の、すべての部分を正確無比に克明に理解することで全編を整合的に読解し切って欲しい、という強烈な思いも同居していたはずですけどね。
私も部分部分はわからないところがたくさんありました。というよりも、わからないところもあって、一方、部分的にはたいしたことないという思いすら抱くところもたくさんありました。だけどわからないやら理解をしたままやら混然とした状態のままで、もうそのときには武蔵のゆるみ方や身体意識、身体のあり方、動き、剣技というものに繋がっていくような情報は、『五輪書』から得られていたんだと思いますね。
こういう人と人、著者と読者の間のシンクロニシティをベースとしたホーリスティックな伝播、共感という現象が存在するということを、私は『五輪書』を媒介して実体験した、という言い方をしてもいいんでしょうね。この現象は間違いなく、読解でも理解でもない。客観性はおろか、間主観性すら存在し得ない、きわめて個人的、主観的な体験でしかありませんから。
徹底的に解析し切り、真髄に迫り切る仕事をしていくときには、独特の重さ、重量感というものが発生する
ある人物について徹底的に解析し切り、真髄に迫り切る仕事をしていくときには、独特の重さ、重量感というものが発生するんですよ。そのことを仕事が肩に重くのしかかるというような表現をした研究者もいました。
だからといって、原稿を仕上げなくてはいけない期日が迫っているからとか、社会的責任の大きい仕事だからとか、はたまた非常に困難な仕事だからといって、重くのしかかるわけではないんです。ここのところは皆さん、お間違いにならないでください。
「真髄に迫り切るときに、独特に発生する重量感」。その人はそのように語っていましたが、「双肩に担う」とか、昔から肩に関する言い回しがありますよね。そのような言い回しがあるもんだから、その方はそうおっしゃったんでしょうけど、じつは重みがかかるのは肩だけじゃないんですよ。全身の全てに重みがかかってくるんですね。これは非常に独特ですよね。
すでに武蔵については、新刊『宮本武蔵は、なぜ強かったのか?』と同じ講談社の本で1995年に上梓した『意識のかたち』と、2002年に出した小学館の『武蔵とイチロー』にも私は書きました。それ以外のところでも雑誌などで何度も取り上げていますし、私が指導している講座、講習会、講演会でも、たいへん多く武蔵について語ってきました。
一方、裏では研究、実技の修練そして指導というような実践の部分でもたいへん深く武蔵に関わっていましたが、そうしたときに、より真髄に迫ってきてるんだなと自分で一番よくわかるのは、その重量感を感じるときなんですよ。自分では「これは相当なことがわかってきたぞ」とか、「これは相当なことを解明できるんじゃないか」と頭で思ったときでも、重量感の発生してないときは結果的にたいした仕事には繋がらないんです。
武蔵の『五輪書』の完全解読という困難な作業に挑んだ最大の理由は、部分部分をきちっと読み解けていなかったから
この独特な重量感というのは、人間の思考領域、つまり通常の脳の作用として発生するものではないんですね。たとえば頭で「これは面白いところを見つけた」、「あっこれは解けそうだ」、「これが解けたら、あのことがわかるかもしれない」などの状況のときって、すごいワクワクするような気持ちや思いが生まれるじゃないですか。それって脳の作用ですよね。私がいう「重量感」というのは、そのルートの「もの」ではないようなんです。
というのは、ワクワクするような気持ち、思いがあるときでも重量感が生まれなかったり、一方、それほど乗り気ではないときに勝手に重量感が生まれたりと、いろんな状況で起きてるんです。今度の講談社の新刊を執筆していく過程でいろんなことがわかってきたんですけれど、そのときにも重量感が何度も何度も発生したんですよ。
前段階での研究時代があるわけですけど、私はそんなに研究としてたいした仕事をしてるようには、頭では思っていなかったんです。だけど重量感はどんどん生まれてきていたんです。だから、この仕事はもしかして、武蔵という存在の真髄に迫っていくことになるのかもしれないなと、頭の隅でちょっとだけ思ったりしていました。
僕は相当な数の本を出版社さんと読者のお陰で出させていただいているんですが、あれだけ書かせていただいても、書籍として書くことのできない研究はいくらでもあるんです。そういう意味で言ったら、淡々と、またひどい重量感にひたされながら研究を進めてきても、発表する機会もないままになっているものは山ほどあります。書籍として発表しているものと比較して、数字でたとえて言えばの話ですが、数百倍ぐらいの量の研究があるかもしれません。武蔵のこと一つとってみても、じつにさまざまな視点から研究をしていて、そのうちの一つがこの五輪書を読み解くことだったんですよ。
やっぱり読み解けてない、部分部分をきちっと解き切れていない自分がいて、それが腑に落ちなかったんでしょうね。それが今回、武蔵の『五輪書』の完全解読書の執筆という困難な作業に挑んだ最大の理由だと思うんですよ。幸いに講談社さんと出版の話になって、「ぜひお願いします」ということで頼まれたので、「じゃあ書かせていただきましょうか」ということで、あっさりとお引き受けすることになったんですね。
口述の最中には何も感じられなかったのに、初校のときに凄まじい重量感に襲われた
『五輪書』の分析になるわけですから、『五輪書』原文の何行かのくだりについて触れて、またそれについて徹底解析していくわけですよね。そうすると私の執筆のスタイル上、凄まじく難しくなってくるんですよ(笑)。きわめて論理的に正確に、正確以上に正確を期するわけです。だから、できるだけこれを読みやすい本にするために、完全口述方式で進めていくことにしたんです。
じつは口述する前に大体のあらすじはもう出来ちゃっていたんです。そのすでに出来ちゃっている文章を立て板といっても完全に垂直というといい過ぎかもしれませんけど、斜め80度くらいの板に水をザーッと流していく感じで喋っていく。この書籍の原稿をすべて口述するのに、10時間はかかっていないと思います。あっという間にしゃべって終わりですよ。だいたい毎回2時間ずつくらいしゃべって、4.5回ほどやりました。
いったん口述を始めたら、ワーッと2時間一瞬の休みもなくしゃべり切っておしまい。毎回そんな感じで「今日は、これで終わりにします」というふうにして出来た本なんです。まさに完全口述筆記そのものなんです。あっさりしたもので、口述の最中には重量感なんて何も感じられなかったんですよね。ですがその後、凄まじい重量感に襲われたんです。それが初校ゲラの校正(チェック)=初校のときですよ。