ホーム > マルクロ武蔵論(2)

マルクロ武蔵論

【発売たちまち増刷決定!】

高岡英夫の新刊には書けない裏話「マルクロ武蔵論(2)」

  • 高岡英夫[語り手]
  • 運動科学者。「ゆる」開発者。現在、運動科学総合研究所所長、NPO法人日本ゆる協会理事長・推進委員。東京大学、同大学院教育学研究科卒。東大大学院時代に西洋科学と東洋哲学を統合した「運動科学」を創始し、オリンピック選手、芸術家などを指導しながら、年齢・性別を問わず幅広い人々の身体・脳機能を高める「ゆる体操」「ゆる呼吸法」「ゆるウォーク」「ゆるスキー」「歌ゆる」を開発。

一流スポーツ選手から主婦・高齢者や運動嫌いの人まで、多くの人々に支持されている。大学・病院・企業などの研究機関と共同研究を進める一方、地方公共団体の健康増進計画での運動療法責任者も務める。ビデオ、DVD多数、著書は80冊を越える。

マルクロ武蔵論(2)(2009.05.12 掲載)

前回は、武蔵がいかにゆるゆるにゆるみ切った、究極的に真面目かつふざけた男であったかについてお伝えしました。

また、その「プッツン」さこそがあの武蔵の凄まじいパフォーマンスを可能にした土台であり、一方でいえば、その武蔵のプッツンな側面というものが、後の人々にとっておそらくは受け入れがたいものであったのであろう、ということについても触れました。

今回は少し視点を変えて武蔵の内面、一見深く恐ろしい表情をしている武蔵がいったいどのような心境だったのかということについてお話したいと思います。

武蔵の身体と身体意識の何割かを体現することによって、表情も同様に武蔵の表情になってくる

武蔵の演武をしたりだとか、演武でないにしても武蔵の稽古をつけるとかで、非常に自分がそれに没入していったときというのは、後でその映像や写真を見ると、独特な表情になっているんですよね。これは普段の自分の表情では決してないですよ。

これは私のまわりにいる人たちも皆さん証言していることで、私の家内なんかは「武蔵の顔になっている」という言い方をします。私自身は武蔵がこういう表情をしていたんだとは、そう簡単に言うつもりはないんですけどね。

私も武蔵の稽古、演武をする以上、その身体のあり方にせよ、身体意識のあり方にせよ、これが武蔵の身体のあり方であり、身体意識の構造のあり方であるということをできるだけ正確に解明する努力を積んだ上で、それを自らに稽古として課していますので、修行を積み上げた結果、身体と身体意識の構造全体が武蔵の何割かを体現するという状態になり得るだろうと考えているんですね。論理的にはそういうことになるんでしょうから。

そうなると表情も何割かは武蔵の表情になってくるということが当然あり得るわけです。そう考えるのが合理的ですよね。身体や身体意識が武蔵的になっていて、表情だけがまったく高岡英夫のままっていうことは、逆に理にかなっていないですよね。表情っていうのは、身体や身体意識というものを当たり前のごとく反映しているわけですから。

深く恐ろしい表情に見える武蔵の心境は、じつは谷川の水のように「清らか」だった

読者の中には「じゃあ、気分や気持ちはどうなんですか?」という質問をお持ちの方もいらっしゃると思うんですけど、その状態のときはどんな気分だと思いますか?

ズバリお答えすると「水」のようなんですよ。心は広く、清明で、すなわち清らかで、非常に明るいんですよ。濁ったところが一つもない。じつに清々しい。

武蔵が地之巻で「水を本として、心を水になる也」、それからその後にいくつかの言葉が来て、「きよき所をもちひて」って、こういうふうに書いているんです。「きよき所」、僕にはそれが身体と精神の実感としてたいへんよくわかる。そしてたいへんよくわかるというのは、実感だけでなく、論理的に彼の書いたものを解析していく過程でも、それは明らかになってくるんですよ。

対象の論理構造を読み解いていく過程というのは、著者にとっても読者にとっても最高にダイナミックな認識のプロセスなんです。この辺りもやっぱり醍醐味ですから、講談社の新刊でそれをぜひお楽しみください。だから私はそれについてここでは触れませんよ(笑)。

論理的な解釈や解析の過程でもそうなんだけれども、一方今しがた語ったように、実際にその武蔵の何割かを体現しているような状態に入ってきて、稽古をつけたり、演武をしたりしたときに、彼が水の「きよき所をもちひて」って書いてあるわけが、じつによくわかるんです。

あの谷川の水の清らかなところを想像してみてください。武蔵の時代だったら、自然環境がどこも汚染されてないですから、本当にきれいな谷川や岩清水だったでしょう。その清らかさから武蔵は言っているんです。本当にとことん、どこまでも清らかな水の「きよき所をもちひて」なんですよ。

心は清明、清らかで、明るく、体もまったく一点の濁りもなく清らかそのものです。それでいて快適で、爽快な、颯爽たる、風が吹き抜けていると感じられるほどの清らかさなんです。

それと谷川に清らかな水が勢い欲よく流れているときには、風が舞いますよね。水と一緒に風が動くじゃないですか。あれも人が感じる「清らかさ」の要素に入ってるわけです。武蔵は当然その風の動きも、通常の人の何十倍、何百倍も感性豊かなんですから、体の奥深くからそのことを敏感に感じ取っていたでしょう。

だから、水の「きよき所をもちひて」と言っても、清らかな水と一緒に、体の実感としてはそこで運動している空気のことも当然感じているはずなんですよ。水だけが水の「きよき所」の要素として単独で存在するわけではないのです。

皆さんもよくご存知だと思いますが、肖像画の武蔵は非常に深く恐ろしい表情をしています。いかめしいとか、怖いとかではなくて、深く恐ろしい表情に見えますよね。皆さんがそう見えるんですから、深く恐ろしい表情になっているということは間違いなく一つの、学術的にいえば間主観的な事実なんです。

それでは「武蔵のそのときの身心の状態は?」っていうと、心は、清らかで、明るく、広くて、一点の濁りもない。そして、体はもう清らかなる「水」、そして颯爽たる「風」が吹きぬけるような清らかさ。

谷川の水が勢いよく流れてくるところに自分が一緒にそばに立っていると想像してみてください。風が必ず舞っているでしょう。あの感じです。水と空気が谷川に織りなす、本当に爽快な清らかさなんですよ。

武蔵は人という存在を認識する認識者としても第一級の人物だった

もちろん十割全部、武蔵を体現するというのは無理です。そこまでの解明は当然無理だし、一方で、仮に現代のスポーツ界のトップ中のトップアスリートについて研究・分析する場合でも、100%の解明は無理です。その研究成果を利用して、100%その人間に近づけるトレーニングをしたとしても、100%体現できるわけではないことは、当然おわかりですよね。

いわんや昔の人だから、とは私は言いません。これほどの武蔵関連の資料が残っていたら、現代に生きているトップアスリートその人自身から話を聞いたり、実際に勝負をしている試合やトレーニング中のビデオ映像を見たりなど、ありとあらゆる資料を揃えている状況と、あまり変わらないと、私は考えているんです。

というよりも、能力の低い研究者や取材チームがトップアスリートを追って、一生懸命その人物の情報をかき集めてきて分析したところで、武蔵のこの『五輪書』一冊に書かれているほど「人」というものの存在に対する深く豊かな洞察と分析、そしてその総合として書かれたその表記というものには、決して到達できないと思いますね。

つまり、人という存在を認識する認識者としても、武蔵は、とんでもない能力の高さを持っていたわけですよ。超がいくつも付くような、素晴らしい認識力を持った人物です。いまこれだけの認識力を持った人間がいますか?

そのような水準の人間がいたら、いまのトップアスリートについて『五輪書』に迫るほどの洞察、分析、表記ができるかもしれない。でも残念ながら、現代にそういう人物はいません。で、私たちの前には全員が読める形で『五輪書』が置かれている。これだけの認識能力の高い認識者が自分自身のことを分析して語ったんですからね。それほどこの書は、資料として中身の濃いものなのです。

私は『五輪書』を全部読んだ上で、「センター」のことはどこにも書かれていないと断定していた

1990年代の初頭では、私はまだこれほどの資料価値のあるものだとは、思っていなかったんですよ。

つまり、あの「ぽつぽつ飲めば、ぽつぽつと〜」っていう、八代亜紀が歌った舟唄という歌がありましたよね。私は正確にいうと八代亜紀ではなく、あの曲が好きなんですけれど(笑)、「ぽつぽつ読めば、ぽつぽつと・お・お」、と武蔵の言いたいことがまさにわかるわけです。

私もゆるむことだとか、身体意識のことだとか相当にわかってきてたので、それ以外の人が読むのに比べて、私だからこそ理解できる部分がいろいろあったわけですよ。だから、武蔵がゆるむことを大事にしているよな、というのは確かに読めていました。

で、実は告白してしまいますけど…、マルクロ武蔵論だからいいでしょう。私のマルクロなところも、ばらしてしまった方が面白いですから(笑)。

しかし『五輪書』の中に、私の学術用語で言う身体意識中の最重要装置「センター」、つまり俗にいうところの「軸」、「正中線」については、その存在の根本構造に関する本質的論説はもとより、複数軸の展開に関する具体的構造論も、どこにも書かれていないと、私は断定していたんですよ。もちろん全部読んで、かつそれらを探して読んだ上ですからね。探して読んでも、どこにも書かれていないと思っていた。じつはこの判断が、間違っていたんです。私はその後のさらに徹底した解析作業により、自らの過ちに対面することになるんですが、今回の書籍『宮本武蔵は、なぜ強かったのか?』には、私の判断の誤りを正す重大な発見が、克明に記されています。その発見の過程は、まるで暗号を解き明かす謎解きのようでしたよ。

でも一方で、武蔵にセンターがあるということは、『五輪書』中のどこにもその記述が見つからなくたって当たり前のことなんです。「どのくらいの規模で、どのようにセンターが通っていたの?」ということが、なぜかこの『五輪書』全体を通して読んでいったときに、感じられるものがあるんですね。

皆さんも本をお読みになるでしょう。仕事で読む場合は別として、面白いから読み進めるわけですよね。自分が読みたくて買った本で、自分の興味関心にまかせて気ままに読んでいくときって、すごく面白いじゃないですか。それで読み終わったら、こう一息一呼吸する間に、自分の中で「何か」が感じられるでしょう。「何かの思い」というか。もちろん「どこどこの箇所がひっかかって」とか、「どこどこの場面が具体的に頭が浮かんじゃって」ということもあるでしょうが、それがないときには本全体を通した「何か」が残りますよね。

私には、そのときに武蔵がどのような身体意識をしていたのか、またどのようなゆるみ方をしていたのかが残るんですよ。

つまり、彼はこれを書くときに「それ」=「本質」を伝えたかったわけですよね。どのような手段で伝えたかというと、文章を書くという手段なわけです。

部分部分ではなく、総体全部を読んでみたときに、残る人には残るだろうと期待して、武蔵は『五輪書』を書き残した

でもそれは結局、彼の中では渾然一体じゃないのです。彼一人の身と心、全体としてトータルに存在しているものを時間的に一瞬止めて表現したとしても、元は全部トータルに存在しているわけですよ。三次元×三次元×三次元……、実体を時間の流れで積分した中で、人はまるごと全体として存在しているのです。それを一文字一文字、刻んでいく点が積み重なって、文章という線になり、それで表現しようとしたわけです。

だからといって、当然意味を超えて、点、つまり部分だけでもって言いたいことを全部表現できるわけではないでしょう。例えば、自動車の機械のパーツをばらして、ひとつひとつ並べていって、大きな倉庫の広大なフロアーに全部のパーツを並べていくとしますよね。それを一つ一つ見て歩いていけば、全部のパーツが見られるんです。でも機械ですら、パーツをすべて並べたとしても、その機械全部を表現したことにならないでしょう。なぜなら組み合わせ方があるのだから、どう組み合わせるかってことも最重要論理じゃないですか。情報で言えば、最重要情報ですよ。そして機械は動くわけです。動く…、動いて、はじめて機械の機械たる由縁が表現されるわけです。

いわんや人間、人間の存在や能力は…でしょ。だから部分部分の足し算で全部が書き表されているわけじゃないのです。あくまでも彼が期待したことは、この総体を全部読んでみたときに、何か残る人には残るだろうと、それを当然期待していたんだと私は思うんですよ。

▲このページの先頭に戻る