ホーム > 末續慎吾研究

末續慎吾研究(高岡英夫の2003年7月公開論文)

  • 高岡英夫[語り手]
  • 運動科学者。「ゆる」開発者。現在、運動科学総合研究所所長、NPO法人日本ゆる協会理事長・推進委員。東京大学、同大学院教育学研究科卒。東大大学院時代に西洋科学と東洋哲学を統合した「運動科学」を創始し、オリンピック選手、芸術家などを指導しながら、年齢・性別を問わず幅広い人々の身体・脳機能を高める「ゆる体操」「ゆる呼吸法」「ゆるウォーク」「ゆるスキー」「歌ゆる」を開発。一流スポーツ選手から主婦・高齢者や運動嫌いの人まで、多くの人々に支持されている。大学・病院・企業などの研究機関と共同研究を進める一方、地方公共団体の健康増進計画での運動療法責任者も務める。ビデオ、DVD多数、著書は80冊を越える。

二人目のトカゲ走り~日本にもいたトカゲ走りの勇者・末續慎吾選手~

5月に100m10秒03、6月に200mを今季世界最高の20秒03で走った末續慎吾選手。日本人初の100m9秒台の夢の実現を目前にした彼の走りを分析すると、そこには女子マラソンで脅威の世界最高を出したあのポーラ・ラドクリフと同じ、トカゲの動きがあった。

今、末續選手が注目されている理由

今、陸上男子短距離の末續慎吾選手が注目を集めています。5月に行われた水戸国際陸上の100mで9秒台目前の10秒03。6月の日本選手権の200mでは20秒03。特に200m20秒03は、その時点の今季世界最高記録。2000年のシドニーオリンピックと2001年の世界選手権の優勝タイムをも上回っていた、ということで、今、専門家だけでなく一般のファンやマスコミなどもかなり盛り上がっています。

運動科学の専門家としてこの盛り上がりを見ていると、今、末續が注目されている理由は、これらの記録だけでないことを感じています。おそらく、彼のグニャグニャしているとも言える独 特の柔らかな身体の使い方に、一般の方々もこれまでの短距離選手とはどこか違っているものが あると感じ、それに惹かれているのではないでしょうか。また、彼の屈託のない表情や発言に魅力を感じている人も多いでしょう。 これまでの日本の短距離の選手は、どちらかというとカチッと体幹部を固めて手足をしゃにむに振っていく動きでした。それが、末續選手の先輩で、やはり100mで9秒台目前までいった伊東浩司選手から変わってきたのです。伊東の体幹部はちょっと柔らかそうな印象だったのですが、末續選手にいたって本当にグニャグニャした印象に変わってきたのです。今ようやく、このようなことに対して、マスコミも含めてスポーツに興味を持つ人が敏感に 反応する時代になってきたのです。その背景にはオリンピックや世界選手権をはじめ、NBA、大リーグ、ヨーロッパのサッカーリーグといった世界のトップクラスのプレーを一般の人たちが テレビで観るようになってきたことがあります。彼らはそうした視聴経験を積み重ねることで、どんな種目でも世界のトップシーンは身体がグニャグニャになってきている、別な言い方をすると、ゆるんできている、脱力してきていることを感じはじめているのです。中でもNBAのマイケル・ジョーダンなどはスーパースターとして突出した存在でしたから、バスケットボールファンに限らず多くのスポーツ好きが注目。彼の動く姿は自然に多くの目に入っていたはずです。マイケル・ジョーダンの身体はグニャグニャさえ超えて、液体のようにユル ユルにゆるんでいました。ですから、そのユルユルがどういうメカニズムで、彼のパフォーマン スとどう関係しているのかまではわからないものの、多くの皆さんの潜在意識に、あのユルユルの身体の印象が沁み込んでいるのです。

▲このページの先頭に戻る

21世紀のスポーツの主流は身体をゆるめること

20世紀の後半、スポーツの人気が劇的に高まった時代は、より強い筋肉を獲得することでパフォーマンスを高めることに人々の関心が集まりました。たくましくがっちりとした身体、強い筋肉で運動することが時代の主流だったのです。ところが21世紀に入って明らかに流れが変わってきました。筋肉を強化することで高め切ったそれまでのパフォーマンスの水準を越えるには、今度は脱力して身体をゆるめられる限りゆるめて、グニャグニャ、ユルユルにして、身体を可変的にすることが必要だということに気づきはじめたのです。そして、その身体を上手く使いこなし、そこから生まれる新しい出力でパフォーマンスを導き出すという方向に変わってきたのです。

20世紀後半にもそのような身体の使い方をしていた人はいました。アルペンスキーのインゲマル・ステンマルクや、橋本聖子のライバルだったスピードスケートのボニー・ブレア、アイス ダンスのトービル・ディーン組、そして先ほどあげたマイケル・ジョーダンといった人たちです。この人たちはその時代においてダントツに抜きん出た、いわば異星人のような存在で、彼らのまねをしてもダメだと言われていたのです。ステンマルクなどは80年代にすでにそのような身体の使い方で突出した活躍を見せ、最も早く異星人扱いされた人でした。世界中のスキー関係者や スポーツ科学者が、彼のあまりに高いパフォーマンスの秘密を解き明かそうと研究したのですが 解けずじまい。結局はまねしてもダメだという結論に終わったのです。

ところが21世紀になって、そのような身体の使い方をする選手が、類まれなダントツの存在としてではなく、世界のスポーツのトップシーンに度々現れるようになってきたのです。日本選 手でいえば、大リーグで活躍しているイチロー、長野オリンピックで活躍した清水宏保選手、船木和喜選手らが、その系譜の人たちです。

このような時代の流れがベースにあるために、皆さん、末續選手の活躍に注目したくなってしまうのです。彼はあの身体の使い方に見合うように、精神もとても柔軟でゆるんでいて脱力しているのがわかります。だから本当に豊かな表情で、楽しい話をしてくれる。こういう陸上選手は、今までは珍しかったのです。

▲このページの先頭に戻る

末續選手の身体がグニャグニャしているわけ

では、ここからじっくりと末續選手のグニャグニャの身体とパフォーマンスの関係を運動科 学の力を使って解き明かしていきましょう。

図A、図Bは水戸国際陸上の100mで10秒03を出した時の彼の写真を線画に起こし、説明のためのラインを描き入れたものです。図Aは右足が接地する寸前、図Bはその逆で左足が接地する寸前で、実際の彼の走りでは図Aと図Bの状態が交互に表れます。これらを見ると一見して彼の身体がグニャッとしているのがわかります。グニャッとしてい るというのは、身体に波状の変化が起きているということなので、その動きを探ってみると、彼 の身体では①で示したラインに導かれて、左右にうねる波動が起きていることがわかりました。

図A図B

②は両肩関節のすぐ下を結んだ線、③は両股関節を結んだ線です。この②と③からわかるの は、図Aの②は右(末續にとっての右。以下同)が少しかしいで左が高く、③は右が高く左が低くなっていて、図Bではそれがおおよそ逆になっている、つまり、彼が②と③、すなわち肩と腰 で挟み込んだ部分を一歩ごと左右交互に閉じたり開いたりして走っているということです。私はこの動きを「肩腰交互開閉」と呼んでいますが、これも彼の身体が左右の波動運動を起こしていることを示すものです。

ということで、末續は身体を左右に波のように動かしているために、肩と腰の間が左右交互に開閉している。その結果グニャッとした印象になることはおわかりいただけたと思いますが、その動きは完全に左右対称ではありません。図Aに比べて図Bはかなり右に片寄っています。頭にかかる波も強く右寄りになっているために、首が右にかなりかしいでいます。完全に左右対称なら②も図Bでは右肩が上がるべきですが、僅かに下がったままです。つまり、彼の走り方は左右アンバランスなのですが、この点については後ほど考察することにして、まずは①の波動のラインから考えられることについて、詳しい話をします。

▲このページの先頭に戻る

末續選手もあのラドクリフと同じ、トカゲ走りをしていた

彼のように左右に深い波動を起こしながら走っている選手は、普通の選手では決していないし、また一流選手でもまれです。広くいろいろな選手を見れば、左右の波動運動を使う選手は全 く存在しないわけではないのですが、ここまで深く波動を使っている選手は非常にまれです。

図Cは、長い間、日本の短距離界を引っ張り、先の日本選手権でも末續に次いで2位に入る 健闘を見せた朝原宣治選手の写真を線画に起こしたものですが、末續の図A・Bに相当する運動 局面であるにもかかわらず、体幹部はほとんど箱のようで、全身的に真っ直ぐ。両肩のラインも 両股関節のラインも水平です。これがまさに体幹部をキチッと固めて、手足だけをしゃにむに動 かすという、これまでの体育の教科書にあるような走り方の典型であり、私たちが見慣れてきた 姿なのです。

  • 図C

図Cを見てから、再度、図Aと図Bを見ると、末續選手がいかに特異かということがわかるでしょう。短距離選手に限らず、人間がこんなにグネグネ左右に波動を描いて動くことは、普段はないのです。

となると、この動きは一体何なのか、どこから生まれたものなのか、ということになりますが、その答えはトカゲにあると私は考えています。というのは、人間の進化の歴史をずっと遡っていったところ、一番近くでこのような運動をしているのが爬虫類のトカゲだからです。トカゲは歩く時に、このような波動を描きます(トカゲの場合はこれを伏せた状態ですが)。さらに進化の歴史を辿れば魚類もこのような動きをしています。 みなさんの主観としては、人間の身体は魚類や爬虫類とはずいぶん違うものでしょう。でも、解剖学的に細かく見ていくと、人間の身体は魚類や爬虫類の動きをすることも十分可能なように できているのです。また、私は人間の身体には過去に辿ってきた身体構造と機能がDNAとして保存されている、だから何かのきっかけで、人の中にある爬虫類や魚類のDNAが目覚め、それに従って勝手に身体が動きはじめることも可能だと考えています。だから末續選手の場合も、頭で一所懸命考えて、あの動きを生み出し身につけてきたわけではなく、自分の中に潜在的に眠っていた機能をたまたま発現させただけなのだと私は推測しているのです。

末續選手がトカゲのような走りをしていると聞いて、本連載(2003年1月より2003年12月まで)を定期購読してくださっている方は、女子マラソンのポーラ・ラドクリフのことを思い出し、驚かれたのではないでしょうか。

本連載2月号で、私は驚異の世界記録を出し続けているラドクリフの走りを分析。彼女の走りがトカゲ型の運動構造していることを示しました。マラソンという持久種目では、動きのムダを極力少なくし抑制した走りをすることが、これまでは金科玉条のごとく重要視されてきました。それに対してラドクリフの走りは、脇は開き、脚はがに股気味、首はガクガク振られ、身体はフラフラ・・・という今までの常識からすると、破壊的とも言えるほどとんでもない動きだったのです。にもかかわらず、あの速さで走れるのはなぜかということで、彼女の一見デタラメに見える 動きを仔細に分析してみたところ、そこにはまさにトカゲ型の波動運動があったというわけです。

このことを発表して各方面から関心を寄せていただいているところへきて、末續選手が同じ トカゲ型の運動構造をして成功を収めつつあるというのは、私にとっても驚きであると同時に喜びでもあります。もちろん、まだ彼は200mで世界のトップクラスに入ったばかりの段階で、ラドクリフのように世界記録を出したわけではありません。それでもトカゲ型運動構造をしているという点については、ラドクリフに次ぐ評価をすると同時に、注目すべきであると私は考えています。

▲このページの先頭に戻る

エリマキトカゲは水面を走れるほど速い

ここまで読んで、末續選手がトカゲ型の動きをしていることはわかったけれど、それと彼の速さと何の関係があるのか?トカゲは速いのか?という疑問を持たれた方もいらっしゃるでしょう。その疑問に対して、まずは実例でもってお答えします。

ラドクリフの分析の時もお話したことですが、トカゲは陸上動物の中で最も俊敏に移動運動をする動物なのです。日本トガケは尻尾まで含めても人間の手に収まるぐらいの大きさです。それでも人間の大人が真剣になっても捕まらないほど素早い移動運動をします。

また、エリマキトカゲは敵に襲われた時などに人間の親指ほどの長さの2本足で立って、時速27キロとも言われる速さで走るのです。しかも驚くべきことに、池や沼の水の上まで走ってしまうのです。右足が沈む前に左足を出すという、あの忍者伝説を実際にやってしまうのです。

で、彼らがどこからそのスピードを生み出しているかというと、体幹部の波動運動からなのです。

体幹部からのエネルギー出力は、そのようなとてつもないパフォーマンスを生むことができるのです。

そして、それを人間がやった場合も速いの?という答えには、ラドクリフの驚異のパフォ ーマンスが答えてくれています。念のために申し上げておきますが、42kmも走るマラソンに対しその420分の1を走ればいい100m走では、身体の動きは非常に大げさになります。だからトカゲ型の波動もラドクリフに比べて末續の動きの方がよりオーバーに現れています。

▲このページの先頭に戻る

「ちょっと接地しただけで自然に前に進む」理由

このトカゲ型、すなわち左右にグニャグニャする波動運動と前後の推進力との関係について説明します。

まず、図A、図Bを見てください。浮いている方の脚、すなわち空中脚(図Aでは左脚、図Bでは右脚)の股関節を見ると、接地しようとしている脚、接地脚のそれより下がっています。

私はこの現象を「空中脚側股関節下垂」と呼んでいます。空中脚の股関節が接地脚のそれよりこれほど長い間低いままというのは大変珍しいことです。

図Cの朝原選手を見てください。これは図Bと同じ局面ですが、彼の場合はほぼ完全に肩の線と腰の線が水平で、空中脚側股関節下垂は全く起きていません。それに対し、末續選手は離地したあと、その脚の股関節をできるだけ低い位置に保ちつづけ、図A、図Bの局面の次の大腿が上がり切る局面になって、ようやく高くしているのですが、実はこれが彼の速さの大きな秘密の一つなのです。

この空中脚側股関節下垂が起きている時、身体の中で起きていることをさらに厳密に見てみると、末續選手の場合、空中脚の側の大腰筋が垂れ下がると同時に後ろに残り気味になって引っ張られて伸びている(これを厳密には空中脚側股関節後下垂と言い、波動運動が左右方向だけでなく体幹の上部の左右両側と下部の左右両側の計4個の部分が前後方向にズレ合う運動を含んでいる)、つまり大腰筋に前上方~後下方間の斜め方向に大きな張力がかかった状態になっているのです。大腰筋は胸・腰椎と両股関節のすぐ下の大腿骨をつなぐ筋肉で、これが後ろ下方に引き伸ばされた後に縮む時、後下方に残された側の腰と大腿骨が前方に引き上げられる、つまり片側の腰と大腿が前上方に突き進むのです。

筋肉というのは張力がかかるほどに、強い力を発揮する性質をもっています。つまり伸ばされることによって、エネルギーが溜まっていくわけです。ゴムを引っ張った状態を想像してください。同じ長さのゴムならば、その長さがより長くなるように引っ張るほど、戻り幅が大きくなって、結果たくさんのエネルギーを生みますが、ちょうどそれと同じことが彼の空中脚側の大腰筋で起きているのです。つまり、彼は空中脚の股関節をできるだけ粘り強く後ろ下方に落としたまま運んでいって、大腰筋に張力を溜めに溜めたところでパッと大腰筋を収縮させ、片側の腰~大腿を前に一気に振り出している。これが彼の腰脚の運び方なのです。

さらに、離地してから脚が前方に振られるプロセスにおける彼の脚のスピードを細かく見てみると、前半は空中脚側股関節後下垂をしながら、比較的ゆっくりしているのですが、後半に入ると急速にスピードが上がり、一気に大腿が振り出され、大腿が前方に進み切る瞬間に、最高スピードになっているのです。

大腿が進み切る瞬間のスピードが速ければ速いほど、そのまま前に行こうとする移動慣性力がより強く大腿に働きます。勢いよく前に動いている物は急には止まれません。それを引き戻そうとすると、引き戻そうとした身体自体が前へ運ばれるのです。走りでいえば、振り出した大腿が切り返されて後ろに引き戻されようとし、膝関節も伸展しようとする時に体幹がグンッと前に進むのです。

つまり、彼の身体は足で地面を掻く時だけでなく、空中でも進んでいる。だから速いのです。

100mで10秒03を出した後、「それほど力を入れなくても、ちょっと接地しただけで自然と前に進む、滑るような感触でした」と彼は言っていましたが、今説明したように、空中脚の切り返しの局面でも、体幹部を推進させる身体の使い方ができると、このようなことが起きてくるのです。下手な走りほど接地直前の体幹部のスピードは落ちるのですが、空中脚側股関節後下垂が起き、 切り返し直前の脚のスピードが速く、そのスピードを慣性力として利用できると、体幹部がスピードに乗ったまま接地できるために、体幹部と接地脚の速度差が少なくなることで、接地がとてもなめらかになるのです(これを体幹接地脚速度一致化と言う)。

また、体幹部をこれだけ柔らかく使え、比較的重心の高さを変えずに走っていることも、なめらかな接地と関係しています。体幹部が硬いと、どうしても身体が上下動し、その結果、ガツン、ガツン地面を蹴る動きになりやすいのです。「地面を蹴る」という運動感覚があったら、9秒台の選手にはなれません。9秒台の選手は、接地時の感覚を「軽く接地するだけ」とか、「やさしくやさしく地面に足をおいていくだけ」というように表現するのです。9秒を目前にしていた時の伊東浩司選手もそうでした。

ちなみに、日本の古来の武術では、蹴ってはいけないという教えがあります。その世界で本当に優れた身体の使い方ができる人は、どんな高速運動をしても地面を蹴らないものですが、そのような身体の使い方と短距離のトップレベルの接地の仕方には共通するメカニズムがあるのです。

▲このページの先頭に戻る

「空中脚側股関節後下垂」とグニャグニャした動きとの関係

では、なぜ、末續選手はこのような空中脚側股関節後下垂ができるのでしょうか。実はその秘密が、先ほどお話した肩腰交互開閉、すなわち、身体を左右前後にグニャグニャさせるトカゲ型の動きにあるのです。

図Aの局面で言えば、左肩と左腰の間を伸ばして開いていく一方、右肩と右腰の間を縮めて狭めていくと、右側の体幹部(これを右側体と言う)の収縮エネルギーで左側体が引き伸ばされるために、大腰筋に大きなストレッチがかかり、そこにたくさんのバネ性の伸張エネルギーが溜まりやすくなるのです。つまり肩腰交互開閉が起きると、肩と腰ではさみ込まれた部分の筋出力が、開かれた側の大腰筋のより強大な筋出力につながり、そのエネルギーで腰脚が振り出され、その結果、腰脚に働く強い移動慣性力でもって、体幹部全体が前へ放り出されるのです。

さらに、大腰筋が働くと、その共働筋である腸骨筋も強力に働きます。腸骨筋は腸骨と両股関節をつなぐ筋肉です。大腰筋と腸骨筋が強く働くと、股関節の裏側にあって、振り出された脚を後ろに引き戻す働きをするハムストリングスと大殿筋も、それに拮抗するように強く働きます。すると、移動慣性力で体幹部がグッと前へ進むだけではく、ハムストリングスと大殿筋で脚が後ろに強烈に振り戻されることによっても、体幹部はさらに前に推進するようになるのです。

身体を左右前後にグニャグニャさせることと身体が前に進むことは、一体何の関係があるのかと思った方も多かったと思いますが、実はこのようなメカニズムで左右前後の波動運動が、前方へ向う推進力に転換されるように人間はできていて、それをある程度使っているのが末續選手の走りだと言っていいでしょう。

末續選手は他の世界上位のランナーと比べても、日本の朝原選手と比べても、筋肉がほっそりしているので、かなりか細く見えます。それなのに、なぜあれだけ速く走れるのかというと、身体の表面ではなく、目には見えない体幹部の中の筋肉を出力資源にしてそこから生まれるエネルギーでスピードを出しているからなのです。使える筋肉は体幹部の中にいくらでも残されているのです。

▲このページの先頭に戻る

松井秀喜選手にも見られる「分散加算」

体幹部に秘められているパワーの利用について、ひとつ面白い話をします。私は以前、ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜選手がホームランを打つ時と中距離ヒットを打つ時の動作分析をしたのですが、バットの振り出しからバットにボールが当たるまでの時間は、ホームランを打つ時の方が倍近くかかっていました。でも、バットがボールにあたる瞬間のバットのヘッドスピードは、ホームランを打つ時の方がはるかに速かったのです。

これが何を意味しているかというと、彼はホームランを打つ時は、時間をかけながら体幹部の中のパーツとパーツの間をゆるゆるにゆるめ、体幹部の中で先行して伸ばしていくパーツと、後から遅れて伸ばしていくパーツを作り出し、体幹部のあちこちにズレを生み、身体の中をバラバラしながら引き伸ばしていって、最後にそれら全てのパーツを一気に収縮させているということなのです。いろいろな部分で伸ばされたものを一斉に収縮させ、それらのエネルギーを加算させると、ものすごいスピードが生まれるのです。私はこのような身体の使い方を「分散加算」と呼んでいるのですが、これができると、とても楽そうなスウィングでホームランを打てるのです。

末續の場合も、松井のように、身体の中の普通の選手では使わないような部分をバラバラに分けて、その多くのすき間を伸ばしては縮める。それによって、切り返しの局面から後方への振り戻しの局面で体幹部に推進力を与えることができているのです。

といっても、バッティングのスウィングは1回ずつのものですが、100mの場合は繰り返し動作ですし、一歩自体の時間的な短さも要求されますから、一歩にかかる時間をより短かくしながら、一歩の動作の中で前半は比較的ゆっくりさせ、後半はできるだけ速く脚を運ぶ必要があるのです。これは従来のトレーニング方法ではなかなか作り出しにくいものです。でも私は、体幹部の中をゆるめにゆるめ、末續選手のようにグニャグニャに動けるようにトレーニングしていけば、自ずと生まれる動きであるだろうと考えています。

▲このページの先頭に戻る

「暴れ馬に乗っているよう」な走りの意味するもの

ところで、末續選手は1年前に100mを10秒05で走った時、「暴れ馬に乗っているようだった。走っている最中、手足がもぎとられるような感覚だった」と言っていましたが、これは彼の身体が、分散加算をする前提として必要な状態になってきた、すなわち、全身のパーツとパーツの間が広がってきた、身体がゆるんだ状態になってきたことを示しています。身体の各パーツ間をゆるませただけで身体を動かせば、各パーツはバラバラに動くので、暴れ馬に乗っている、走っている間に手足がもぎり取られるような感覚になるのは当然のことです。

イチローが練習しているところを見ると、彼はまず、キャッチボールやフリーバッティングをしながら身体をバラバラにし、各パーツ間をゆるゆるにゆるめています。私はこれを「緩解準備運動」と呼んでいます。彼は自分にとって必要なパーツが開き切るまでそれをやってから、今度は少しずつ少しずつ、それらのパーツ間を一つながりの全体として通して加算して使えるようにしているのです。私はこれを「緩解連結運動」と呼んでいます。この緩解準備運動と緩解連結運動の存在とその関係を科学的に明らかにしたのは、私の仕事ですが、多くの選手にこれを教えてきた実例では、緩解準備運動がうまくいった段階において、いまだ連結運動が不足した状態で動くと、皆、「暴れ馬に乗ったよう」な感覚になるのです。

それが、今年、200mで20秒03を出した時「ウォーミングアップで20mほどダッシュす るつもりが止まれず、120mまで行ってしまうような暴れ馬の感覚があった。なのに、レースではそれが出ず、感覚と走りが一緒になったけれど、『これは行っただろう』というほどの感触はなかった」というようなことを、末續選手は言っていました。

このコメントから読めるのは、アップの時に、本人はまだ自覚していないものの、結果としては緩解準備運動をした状態になっていたということであり、本番のレースではその状態が消えてしまって、こじんまりとまとまった走りになってしまった、ということです。ですから、これからの彼に必要なのは、自覚的計画的に、緩解準備運動をしてゆるませるべきところはもっと深く綿密にゆるませてから、自分にとって本当に必要なパーツをより合理的かつ強力に連結して通していく緩解連結運動ができるようになることなのです。それができれば記録はまだまだいくらでも伸びるはずです。

この緩解準備運動と緩解連結運動で大切なのは、緩解準備運動と緩解連結運動のさじ加減です。緩解準備運動を早くに切り上げ、緩解連結運動に入ってしまうと、伸び幅は少なくなります。

緩解準備運動はどんなレベルになっても必要です。レベルが上がれば上がるほど、緩解運動のレベルも上げなければならないからです。人間の身体には約200の骨と約500の筋肉、計700のパーツがありますが、たとえば、そのうちの100を緩解した時の感覚が‘暴れ馬’だったとしたら、今年はそれが200、来年は300、再来年は400、その次は500、600そして最後は700にしなければいけないのです。あらゆる骨と筋肉をこれ以上バラバラにならないというところまで、分化し切らなくてはならないのです。イチローもまだそこまで到っていない。だから、イチローにもまだ伸びる余地が残っているのです。

緩解運動についてはグリーンやモンゴメリーもまだまだです。だから100mの記録はまだまだ伸びる可能性があります。と言えるのは、日本の武術や中国の武術の世界では、現在のスポーツのトップレベルよりはるかに深いところまで緩解運動をやりおおせた人物がいたからです。名前を挙げると、中国武術の王向齊と、日本の武術の佐川幸義という師範です。彼らは信じられないくらい身体の中を深くゆるませてバラバラにし、緩解されたパーツを自由自在に連結して使っていました。人間は本来そのようなことができるようにできているのです。

▲このページの先頭に戻る

足のつき方に見るトカゲ走り

さて今度は、足の動きに焦点をあて、彼がトカゲ型の走りをしていることを示します。図Aと図Bの足を見てください。彼の足は後ほどお話する片漕ぎ走法のために左右差はあるものの、どちらも接地直前に足裏が内側に向いています。特に左足は、こんな角度のまま100mを走る勢いで接地したら、外くるぶしを完全に捻挫するというほど内側に向いています。でも彼は捻挫しません。なぜかというと、足が接地する瞬間に④で表した方向に力が加わるからです。

このようなことができるのは、実は①で表わされた波動運動が起きているからです。図Bで言えば、左足にかかっている波が左から右へ振られる時、身体の中で左足を右方向に力を加えつつ接地させようとする運動が起きているのです。そして右足でも左足と反対のことが起きているのです。こんなことは考えてできることではありません。全身の波動運動と足の動きのリズムが合っているからこそできることなのです。

このような足の使い方は、トカゲ走法をする人の大きな特徴です。ラドクリフもそんな角度で接地したら捻挫するのでは、というほど接地寸前まで足裏が内側を向いています。でも、彼女の場合も末續と同じように、接地の直前に内側に向かって足を振り戻す波動が起きるために、捻挫はしません。もちろん、2本足で立って高速で走るエリマキトカゲもこのような接地をしています。

▲このページの先頭に戻る

末續もラドクリフのように片漕ぎ走法をしている

片漕ぎ走法の話をします。末續と同じトカゲ走法をしているラドクリフが片漕ぎ走法をしている話は2月号でもしましたが、末續選手も彼女とは逆の片漕ぎ走法をしています。片漕ぎ走法といっても、片方だけがより強く働き、片方は働かないということではありません。ラドクリフの場合は、左腕と頭を左に倒して左上半身が左側に強く深く長く漕ぎ、脚ではその対角である右脚が強く長く漕いでより強い水平推進力を生み出している一方、左脚は左側に落ちてくる重心を支えるために、接地している間に垂直方向への力をより強く発揮しています。

末續選手の場合はどうでしょう。図Bを一見しただけで、ラドクリフとは反対に彼が右に傾いているのがわかります。図Aの局面では普通、頭はもっと左側に位置するはずです。でも、彼の頭はまっすぐよりまだ右に傾いている。つまり彼の頭は走る時、まっすぐから右側にしかいかないのです。また、腕は右が深く使われ、右側が下がりっぱなしです。つまり、彼の場合、ラドクリフの逆で、右上半身を強く深く長く使い、その対角の左脚で水平推進をより強くし、右脚は右側に落ちてくる重心を支えるために、垂直方向の力をより強く発揮している、つまり左で水平に漕ぎ、右で垂直に漕ぐ片漕ぎ走法をしているのです。この片漕ぎ走法が100mでも有利かどうかというと、後ほど述べる理由により、最終的には克服される方向にいった方が望ましいと私は考えています。とはいえ、ラドクリフがあそこまでの片漕ぎ走法で、あれほどの驚異的な記録を出しているのですから、「片漕ぎ走法=ダメ」ではありません。

単純な話、自然界に住んでいる四足動物の身体の使い方は極めて合理的なはずですが、その動きは決して左右対称ではありません。競馬馬も前肢と後肢がぶつからないように斜めに走っていることは、テレビなどでご覧になったことがおありでしょう。ですから、「身体を斜めに使う、左右アンバランスに使うこと=悪い」ではないのです。このことはよく覚えておいてください。

▲このページの先頭に戻る

片漕ぎ走法は100mではロスが多い

けれど、やはり末續選手の場合、100mでも勝負をするなら、それを克服する方向にいった 方がいいと私は考えます。その理由を述べます。

図Dは末續のセンターを描いたものです。太い破線が今の彼のセンターの位置を示し、細い実線が本来あるべきセンターの位置を示しています。センターとは、体軸、正中線、中心線とも呼ばれるもので、重心線とその延長線に沿って形成された身体意識であり、身体の動きを高度にコントロールする働きがある大変重要な潜在的な装置です。で、本来、センターは、へその奥を縦に通るべきものです。でも、彼のセンターはそれより大幅に右にズレているのです。

  • 図D

このズレは先に説明した片漕ぎ走法と連動して起きている現象だと考えられるのですが、これだけセンターがズレたまま100mを走るとどうなるでしょうか。放っておけば、そのズレの分だけ、右へ右へ寄っていってしまいます。でも、実際はそのままでは隣のコースに入ってしまうから、彼は一歩一歩の身体の使い方の中で、潜在的に左へ左へ走る運動を起こして調整している(右側の強い垂直方向への出力もここでいう調整の一部となる)。右へ向かって走る運動と、左へ向かって走る運動が同時に起きているのが今の末續の直線の走りなのです。これは明らかにロスです。推測でしかありませんが、これだけのズレがあれば、おそらく100mで10分の1秒くらいのロスになるのではないでしょうか。

先ほども申し上げたように、このセンターのズレは片漕ぎ走法と連動して起きている現象です。ですから、センターが本来の位置に形成されるようになれば、片漕ぎ走法も直ってくるであろうし、ズレによる動きのロスも減ってタイムも縮まる。あるいは片漕ぎ走法を直すことで、センターの位置が修正され、タイムロスも減ってくるのです。その結果、今の彼のベストタイムから計算すると、9秒93、あるいはそれ以下の記録を出せるはずなのです。

そこが200mを中心にしてきた選手の100mにおける一つの課題なのかもしれません。彼に見られる「右上半身の深い使い方=片漕ぎ走法=センターのズレ」が、左周りのカーブの中では、全面的にではありませんが、プラスになる面もあるのです。

バイクやスキーなどカーブを急速で曲がる競技では、全身の重心と足やバイクが接地している点を結んだ斜めのライン(クロスセンター=斜軸と言う)に対し、上半身がより内側に傾いているのがリーン・イン、ピッタリ一致しているのがリーン・ウィズ、上半身が外側で腰がより内側に傾いているのがリーン・アウトです。この3つのうち通常最も高速でカーブを曲がることのできる身体の使い方が、リーン・アウトです。オートレースのカーブのシーンで、バイクと下半身が内側に急角度で倒れているのに、上半身はそれに比べて立っているシーンを見たことがある人も多いと思いますが、あれがリーン・アウトです。

200mの場合、カーブを高速で回れば身体は外側、すなわち右側に吹っ飛ばされやすい。だから普通の選手は焦りから上半身が先行して、より内側、すなわち左へ左へといくリーン・インになりがちですが、末續選手は上半身を外側、すなわち右側に傾けるリーン・アウトの傾向があります。彼にリーン・アウトの傾向があるのは、もともと上半身が右に傾く片漕ぎ走法をしているからなのか、200mのカーブをより高速で回ろうとしてきた結果、リーン・アウトになって、それが片漕ぎ走法を生んだのかはわかりませんが、いずれにしても、彼の片漕ぎ走法は左カーブの局面では有利な面も持っているのです。

ところが、カーブのない100mでは、そのプラスの面はなくなります。その違い故に、今現在、200mでは間違いなく世界のトップの仲間入りしたのに対し、100mはそこまで達していないのです。タイムから言えば、200mを20秒03で走れるのであれば、100mは優に9秒台で走れるはずです。にもかかわらず、彼がそうなっていないのは、単に100mに慣れていないからというだけでなく、彼の運動構造自体に100mではマイナスになる点がある、すなわちセンターのズレがあるからなのです。

▲このページの先頭に戻る



センターを自覚的にトレーニングする必要性

今後、100mの練習を積んでいけば、このズレはある程度自然に修正されていく可能性はあります。感覚の優れた選手、自分の身体の中を感じる能力が高い選手であるほど、その可能性は高くなります。私は彼の走りだけでなく、表情や態度から、彼はいい感覚をしている、身体意識も発達していると感じますので、おそらく彼はうまくやってくれるだろうと期待しています。

とはいえ、より早く、より正確にセンターをつかむには、感覚に任せるだけでなく、センターそのものを自覚してトレーニングすることも必要だと私は考えます。彼のコーチである高野進さんはおそらくセンターのこともよくご存知のはずですから、その高野さんが末續選手にセンターを上手につかませてくだされば、より早くより適確にこのバランスのズレは直っていくことでしょう。

センターは位置が正確なだけでなく、その深さや高さ、つまり上下で測ったらより長いものでなくてはいけない。また強靭、つまり全身を支配できるほどしっかりしたものであって、かつしなやかでなくてはいけないのですが、そのようなセンターを身につけるには、やはりそのための自覚的なトレーニングが必要なのです。

鉄の棒のようにセンターが硬いと、どうしても体幹部は硬い箱のようになってしまいます。実は、以前、私は朝原選手を指導したことがあって、基本中の基本としてセンターのトレーニング法も教えました。ですから、未だに彼はそのことを忘れていないと思うのですが、今の彼のセンターは残念ながら明らかに硬くなってしまいました。(硬くなってしまったセンターは拘束センターと呼ばれ、本当のセンターとは扱われません)だから、彼の体幹部は拘束センターの硬さと歩調を合わせるかのように硬い箱のようになって、体幹部が本来もっている可能性を閉ざしてしまっている。これは大変にもったいないことです。今回は末續選手の体幹部の柔らかさを際立たせるために、朝原選手にご登場いただいたようで大変申し訳ないのですが、彼も体幹部をゆるめるトレーニングを自覚的に行い、身体の中のパーツをバラバラにしながら、しなやかなセンターを作り直せば、まだまだ伸びることができる、つまり9秒台で走れる可能性を持っているのです。人間の身体は正しい使い方をすれば、驚くほど優れた能力を発揮してくれるものなのですから、この部分は朝原選手への期待を込めて、書かせていただきました。

▲このページの先頭に戻る

ウエイトトレーニングについてのアドバイス

末續選手がオフにウエイトトレーニングを取り入れ、それが今シーズンの好成績の一因になっているということを、マスコミなどが取り上げていますが、彼のウエイトトレーニングについて私の意見を述べます。

彼が「局所的に鍛えるのは好きじゃないから、引っ張ってよいしょと挙げる感じのウエイト」、 種目で言えば、クリーンとかスナッチなど、体幹部を鍛えるものを選び、それも週2回しかやらなかったというのを聞いて、なるほど、やはり彼はセンスがいいなと思いました。

このようなトカゲ走りをする選手に、普通のスクワットやベンチプレスやレッグカールなど を綿密に組んでガンガンやらせると筋肉はつきました、でも気がついたら体幹部は固まって使えなくなってしまいました、という結果になってしまうのです。

人間は鍛えた筋肉を使いたがる傾向があります。ですから、ウエイトトレーニングのやり方によっては、身体のどこから出力をして、どのように身体をコントロールしていくかという、運動制御の主従関係までもが変わってしまうのです。

今の末續選手は明らかに、体幹部の中が主導権を握っている「体幹主導系運動」をしています。それに対し体幹部が箱のようだと手足が主導の「四肢主導系運動」になります。どちらがより効率がよいかは、言わずもがなですが、もし、末續選手が四肢を鍛えるトレーニングをガンガンやったとしたら、せっかくの体幹主導系が四肢主導系に変わってしまう恐れがあるのです。それでどのくらいタイムが悪くなるかは正確にはわかりませんが、おそらく普通の日本代表程度選手になってしまうでしょう。そのことを彼は潜在的に感じ取っているからこそ、彼は自分に合ったウエイトトレーニングができたのでしょう。そこが彼のセンスのよさなのです。

このことはウエイトトレーニングのやり方を考える上で、とても大切なポイントです。これはすべてのスポーツでいえることなので、はっきり申し上げておきます。

小学から中学の時に素晴らしいセンスを持ち、いい身体の使い方をしているなと感じさせる選手は、日本にもたくさんいるのです。ところが、高校時代からがウエイトトレーニングの最適な時期だというスポーツ科学の教えに従って、指導者がウエイトトレーニングをやみくもにガンガンやらせると、筋肉はつくものの、いい身体の使い方は壊され、あの選手はどこへいってしまったんだろう?という結果に終わってしまうのです。そうやって消えていった選手が日本中にごろごろいるのです。その数はウェイトトレーニングによって成功した選手の数より、はるかに多いはずです。

ですから末續選手には、引き続き彼のもっているセンスを信じて、それに導かれてウエイトトレーニングも工夫をしながら行ってほしい。運悪く、体幹主導系運動のわからないウエイトトレーナーに指導されて、言われるままにガンガンやってしまったら、彼のよさは失われてしまう可能性が高いのです。

▲このページの先頭に戻る

独自のトレーニングを創造して、世界の頂点へ

そして、ウエイトトレーニングに限らず、トレーニングの全局面において、時々刻々、より良いトレーニングを探り創造していくというプロセスを踏んでいかないと、100mに限らず、オリンピック種目で世界のトップに立つことは難しいでしょう。モンゴメリーもグリーンも身体の大きさは日本人とそれほど変わらないのです。彼らも同じ人間ですから、特別な身体はしていない。同じ身体資源なのです。

それでもって彼らは9秒8付近で争い、末續選手は10秒付近で争っている。この現実を根本的に打開していくためには、やはり、あらゆるトレーニングについて創造的になる必要があるのです。

モンゴメリーやグリーンら世界のトップのトレーニング方法には参考になるものも、ままあるでしょう。けれども、末續選手は彼らと違うのです。末續選手は彼ら以上に体幹部が柔らかく使えている、つまりトカゲ的なのです。ですから、彼は彼なりのトレーニングの仕方を創造していかないと、本当の大成はないはずです。

末續選手と同じトカゲ走りをするラドクリフはマラソン選手ですから、彼女のトレーニングも直接的、具体的には参考になりにくい。でも、彼女がその運動構造で革命的な成功を修めているのですから、末續選手も自身の体幹部から生まれる独特な運動構造、トカゲ走りに自信をもって、それを活かしながら、もっとそれを改善させる、強化させることに取り組んでいってほしいのです。

といって彼のようなトカゲ型の身体を強化することは、たやすいことではありません。というのは、強化すると身体は縮んで固まりやすく、柔らかな動きは失われやすいからです。普通、筋肉を鍛えると筋肉は縮みやすくなり、結果、各パーツ間の距離は縮まり、パーツとパーツの間の変化や関係性も縮小しやすくなってしまうのです。でも、決してそうなってはいけません。それではトカゲ走りのよさは消えてしまうのです。

先にも紹介したように、各パーツ間をゆるめながら筋肉を強化させることに、もっとも成功している選手は、日本人のイチローです。野球と陸上の短距離ですから、これもまた具体的な部分は随分違うのですが、本質は一緒です。イチローは大リーグにいくにあたってウエイトトレーニングを強化しましたが、彼はそれまで以上にパーツ間をゆるめることも同時に努力したが故に、成功したのです。今の彼は日本にいた時よりゆるんで脱力して、パーツ間が分化されて、ずれて、より深く強く分散加算できる身体になっています。それが明らかに今の好成績につながっているのです。だから、彼に学ぶべきものはあるはずです。

このように私がここまで厳しいことを言うのは、やはり末續選手と高野コーチには、決して焦らなくていいのですが、本質的な意味で深いところまで掘り下げた創造的なトレーニングをすることで、世界の頂点を目指してほしい、日本人の身体でもできるのだということを実証してほしいからなのです。それが日本の陸上競技のみならずスポーツ全体、さらには日本人全体の発展につながると考えているからです。そして、末續選手はそれほどの逸材ですし、高野さんにはそれを成し遂げる力があると信じていることを、最後に述べさせていただきます。

▲このページの先頭に戻る