マラソンの女王 野口の欠場の原因を斬る
- 高岡英夫[語り手]
- 運動科学者。「ゆる」開発者。現在、運動科学総合研究所所長、NPO法人日本ゆる協会理事長・推進委員。東京大学、同大学院教育学研究科卒。東大大学院時代に西洋科学と東洋哲学を統合した「運動科学」を創始し、オリンピック選手、芸術家などを指導しながら、年齢・性別を問わず幅広い人々の身体・脳機能を高める「ゆる体操」「ゆる呼吸法」「ゆるウォーク」「ゆるスキー」「歌ゆる」を開発。
一流スポーツ選手から主婦・高齢者や運動嫌いの人まで、多くの人々に支持されている。大学・病院・企業などの研究機関と共同研究を進める一方、地方公共団体の健康増進計画での運動療法責任者も務める。ビデオ、DVD多数、著書は80冊を越える。
野口みずき【前編】(2008.08.29 掲載)
レース直前、左大腿裏のケガで出場を断念
北京で女子マラソン史上初の五輪連覇を目指していた野口が、レース直前に、左の大腿二頭筋の肉離れと半腱様筋の損傷で出場を断念しました。
国民のすべてに近い人たちの期待を背負い、最有力金メダル候補だった野口みずきが、あのような形で欠場したということは、国民に大きな落胆を強いました。
でも、このことの精神的な責任論については、野口自身がとても思慮深いコメントを出しているので、私は何も言うことはありません。
そのコメントで、彼女の北京に賭けてきた思いの強さと、それが断たれた無念さがよく伝わってきましたし、期待と応援をしてきた人々への謝辞だけでなく、残る代表選手への気配りもしていました。
失敗した時も、その背景を科学的厳密に分析しなくてはいけない
野口はアテネで金メダルを取ったからといって、競技に対する毅然とした姿勢を全く変えることなく、北京に向かって邁進してきて、そのこと自体とても立派だと思います。ですが、どうやら具体的なやり方を間違ってしまったようです。私が今回お話したいのは、そこです。
外からの不可避な障害によるアクシデント以外の理由で選手が欠場に至った場合、その原因や背景を厳密に分析してはっきりと解明しなくてはいけません。
科学的なトレーニングや科学的なケアが大変発達してきている今日、成功した時は、その科学的背景を大いに誇りますが、失敗した時も、科学的な背景を厳密に分析し、反省をしなくてはいけないのです。
そこで、これまでの彼女のインタビュー記事や、トレーニング中の映像を散見して、間接的に得た情報を照らし合わせて、運動科学者としての立場からその原因を分析してみました。
厳しい批判の前提に、選手や指導者に対する敬意がある
その話に入る前に、お断りしておきたいことが2つあります。ひとつは、彼女が北京に向けて具体的に何をしていたか、本当のところはわからないので、推測的な部分があることです。
もう一つは、今回、野口のトレーニング方法や指導者に対して、かなり厳しい話もしますが、それは私が選手や指導者に対するおおいなる敬意を常に持っていることを前提にしているということです。
私は競技スポーツにかける選手も、それを育てる指導者たちも、大変困難な仕事をしている人たちだと思っています。表舞台に引きずり出され、勝ち負けによって、天国から地獄に突き落とされるようなことに挑戦し続けていることは、とても立派だと思うのです。
それでも厳しいことを申し上げるのは、先ほども言ったように、勝った時、科学的な対策が功を奏したというのであれば、失敗した時も、厳密な科学的なものの見方を徹底的にしていかないといけないと考えているからです。それをしないと、悲劇はいつまでも続いてしまいますから。
北京対策としてとられたフォーム改善と頑丈な身体づくり
私が認識している範囲でいうと、野口陣営が北京で勝つために特別に行った対策は、大きく2つあったようです。まず、平坦なコースである北京では、スピードのある選手が有利。だからスピードの出るフォームにしないといけない。そのためには右脚に比べて弱い左脚と、下半身に比べて弱い上半身の強化が必要。ということで、それを目的としたウエイトトレーングをしました。
アテネの後、左脚に故障が集中したこと、シューズの底が左だけ、外側がすり減ることから、左脚の弱さに気づいたようですね。
上半身の強化をしたのは、野口の走りは上下動が大きく、ピョンピョン跳ね、推進力が前上方に向かってしまいロスがある。そして、その原因が上半身が下半身に比べて弱いことにあると考えたからのようです。
彼女の上下動の大きい走りについての私の見方は、後でお話しますが、上下動の大きい走りが、上半身と下半身の筋力のアンバランスと関係しているというのは、面白い推測的な考え方だとは思います。
もう一つの対策は、北京の硬い路面に耐えうるよう、より頑丈な身体を作ることで、そのためにアップダウンのきついクロスカントリーコースで、これまでにない徹底した走り込みをしたようです。
さて、その対策が正しかったのかというと、結論から言うと間違っていたのでしょう。だから、故障によって欠場に到ったのです。
たとえ、野口が出場し、レース中に左腿の裏側がおかしくなって、スパートを掛けられずに敗れたとしても、今回の対策が失敗の原因であるだろうことは推測できます。いわんや、レースにも出られない、練習でもろくろく走れないほどの障害を生んだということは、ほぼ、その対策が間違っていたと結論を出していいはずです。
6月中旬、身体が驚くほどガチガチに固まっていた
6月中ごろに撮影された菅平のクロスカントリーコースでの走りを、8月初めにテレビで観たとき、私は科学者として、驚天動地するほどびっくりしました。一流のアスリートとしては考えられないほど、身体がガチガチに固まっていたからです。インナーマッスルは自由に働いていないし、アウターマッスルはまるで鎧のようになっていました。
また、身体意識(※参照)も、まさに鎧のような硬さでした。
※身体意識とは、高岡の発見した身体に形成される潜在意識のことであり、視聴覚的意識に対する「体性感覚的意識」の学術的省略表現である。『究極の身体』(講談社)の第2章「重心感知と脱力のメカニズム/センター」(72ページ~)で詳しく解説しています。
さらに、重心が低くなっていました。走る競技であれほど重心が落ちては、何をかいわんやです。
その瞬間、思い出したのが、アテネ前、スイスでのトレーニング中だと思うのですが、「もっとリラックスしろ、力んではいけない、重心が落ちるぞ」というようなことを藤田監督が叫んでいる映像でした。
だからこそ、なぜ、こんなことになってしまったんだろうと首をかしげました。そして、その映像から瞬間的に見えたことは、その環境での彼女のパフォーマンスでした。
クロカンの走りから、小脳の機能の低下も見て取れた
クロスカントリーですから、道は凸凹もあれば、硬いところもあるし柔らかいところも、土がむき出しのところも草が生えているところもある。そのような変動成分の多い環境に対して、彼女はその変動成分を受け取らないように、無視できるように、下半身をガチガチに固めて足を運んでいたのです。
微妙な変動成分に対して、下半身を脱力させてゆるめて、地面に足裏がジャストフィットするように、脳で言ったら小脳系をよく働かせて、その環境に適応するように身体を繊細に使っているのではなくて、全くその逆方向のことをしていたのです。
これを見て、何かとんでもない方向に向っている、これはまずいな、と思ったのですが、その番組では、続いて、彼女のウエイトトレーニングの取り組みが紹介されて、そこで、その原因のひとつがウエイトトレーニングにあることがわかりました。
ウエイトトレーニングだけでは、あそこまで固まらない
専門家の見立てとして、あの身体の固まり方の第一の原因はウエイトトレーニングにあるであろうことは間違いないとして、それにしてもあの凄まじい固まり方は、ウエイトトレーニングのせいだけとは思えないのです。環境にジャストフィットさせるべく小脳が働いていない状態、環境の変化を頑なに拒んでいるような、小脳の無機質な状態は、その大半は、ウエイトトレーニングの悪しき結果ではあるのでしょうが、それだけではあそこまで悪くならないはず、と私は考えたのです。
そこで、ふと思いついたのが、何か、身体を締めつけるようなウエアや装着具などを使っているのでは、ということでした。あくまで推測ですが、そういうものの影響でも考えなければ、あの異常な身体の固まり方、その背景にある脳の働きの低下は考えにくいのです。
あそこまで固まっていたら、小脳を中心とした脳の絶妙な状態はトップアスリートという意味では死んでしまっているのと同然ですから、身体で何が起きてもおかしくありません。
もちろん、そのようなウエアを使ったかどうかはわかりませんが、そのようなウエアが、ウエイトトレーニングのマイナス面を加速するように加担していくことはありえることです。
即席で強化した筋肉は、耐久性がないことが多い
あのまま走り続けたら、推進力の要であるハムストリングスがおかしくなるのは当たり前です。
特に、左脚は即席で強くしたわけだから危ない。即席で強くしたところは、筋力自体は同じになっても、強い方と同じだけの回数、強い筋出力で使って耐えられるかというと、難しい。筋力が同じでも、消耗してきたときの耐久力が同じとは限らない、むしろ耐久力は伴っていないことが多いのです。ですから、即席に強くした筋力は、そのまま信じて使ってはいけないのです。
人間の体はそれほど甘いものではありません。
身体の異変は、選手の小脳を中心にした脳全体が最高度に働いていれば、自分で気づくものです。このような動きは絶対に本来の自分ではないとか、このままではおかしくなるとか、窮状を訴える場合も出てくれば、選手自ら、無意識のうちに動きを変える、もっと、ゆるんだ衝撃吸収のできる動きに身体を変えていくものです。
ところがそのような脳のあるべき働きをも、野口みずきは6月中旬の段階で失っていたというのが私の見立てです。北京で勝つためにとった対策が、脳の働きまでも低下させるものになっていたことは間違いないと思います。
身体を締めつけるウエアを、健常人は着てはならない
身体を締めつける衣類は、どんなものでも、原則、生体には必ずマイナスです。一番のマイナスは、血液・体液の循環を抑制することです。もっとわかりやすくいえば、細胞から始まるすべての組織に余計な力が長時間にわたって加えられるわけですから、それらの機能が低下します。
一瞬身に着けてすぐ外せば、圧の変化でポンプ作用が起きて、血液・体液の循環が逆によくなるわけだし、組織もマッサージ効果でかえって代謝がよくなって、より健全な状態になることもありますが、恒常的に身につけるとなると効果はまったく逆です。
ですから、身体を締めつけるウエアの利用は、そのようなマイナスの要因に勝るプラスの要因がある場合のみ、部分的に有効であると言えます。つまり、このようなウエアの使用は、障害者や病人に限ることで、健常人は決して使ってはいけないのです。
まして、健常な人間がさらに身体の能力を高めるためにやっている競技スポーツで使っていいことは決してないというのが、私の立場です。