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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
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第35回(2009.03.03 掲載)

(前回からの続き)人間にとって拘束とはなにか?

そう考えると、もし「拘束」が一切ないナマズのような子供がそのまま育ってしまったとしたら、一体どうなってしまうでしょう? みなさんもちょっと考えてみてください。

もちろん人間の社会に生きていれば、人間の社会特有のウイルスといったものに対する抵抗力はつくでしょう。そういった面では、かの野生児たちとは違うでしょう。でも言葉はどうでしょう? 言葉の発声と「センター」というのは非常に深く関わっているというのが私の持論なので、ここでひとつ大きなヒントを出しましょう。

人間にとっての「センター」というのは、じつは立たないと形成されないものなのです。そして立つためには「拘束腰芯」が欠かせませんし、「拘束腰芯」ができるためにはその前に「拘束背芯」ができなければなりません。つまり、人間が立つためには「拘束双芯」が必須不可欠だということです。しかしその一方で、枝葉末節というように人は不幸にして脚を失ったとしても立派に人として育つのです。

でも幹である背骨がなければ、育つ育たない以前に人間として存在することができませんし、そういう意味で背骨まわりの2つの「拘束」=「拘束双芯」はやはり人にとって必要不可欠なものなのでしょう。

そのうえで、「拘束背芯」と「拘束腰芯」のどちらがよりプライオリティが高いかというと、それはよりプリミティブに起きている「拘束」のほうに決まっています。つまり、その答えは「拘束背芯」です。実際に身体を観察してみてもやはり同じ結果が出ています。なぜなら、「センター」は他ならぬこの「拘束背芯」の付近から形成されるからです。

赤ちゃんがお母さんに抱っこされながら首が据わってくるというプロセスのなかで、明確に「センター」が形成されてくるのです。逆にいえば「センター」の形成はここから始まるということです。そしてその段階から本格的な言語の開化が始まるというのが、私の考え方なのです。

というわけで「拘束」は人間になるために必要不可欠だということが分かってきたと思います。そしてだからこそ「拘束」は非常に手ごわいのです。そういう意味で「拘束」は癌よりもはるかに手ごわい存在です。というのも癌は人間にとって必要な存在ではないからです。癌のようにそもそも必要がないものなら見つけ次第直ちに削除してしまえばいいわけですが、「拘束」は必要不可欠な存在として発生しているのです。

だからこの「拘束」について考えるためには、「拘束」のベクトルから見ていきましょう。「拘束双芯」から生まれたベクトルは、まずその部分に対して深く入っていきます。そしてそのベクトルは「拘束双芯」の周囲に向かっても「拘束は必要なんだ、必要なんだ、必要なんだ……」と叫びながら四方八方へ広がっていきます。その叫びに全身がすっかり洗脳されてしまったのが、レギュラーの身体の人々なのです。

物心がつく前から自分自身の身体の内部からの「拘束が必要なんだ」という叫びを聞きつづけて育ってしまえば、「拘束」に対する疑問を持たなくなってしまうのはあたりまえかもしれません。しかしあるとき気がつきます。それは他ならぬ「肩こり」を感じたときです。

すでに説明したとおり、「拘束出所論」は「拘束双芯」とくに「拘束背芯」から始まりますが、「拘束」解体、つまり「組織分化」への個人史は「肩こり」から始まるのです(「肩こり出所理論」)。

「肩こり」というのは「拘束」に対する稀に見るほどの“自覚”です。それは文字どおり「自ら目覚める」ということです。「あ~、肩が凝ったな~」と思ったとき、人ははじめて「拘束双芯」から出発して拡大しつづけてきたベクトルに疑問を持つチャンスを得るのです。同じように「最近なんだか腰が重い」というのも「拘束」に対する疑問を抱くチャンスです。しかしこの腰の症状には明確な名前がありません。本当は「腰こり」といえば一番いいのでしょうが……。その点、「肩こり」というのはすばらしい。英語にも「肩こり」という単語があって「スティフショルダー」(stiff shoulder)といいます。余談ですが某知識人が「欧米には肩こりなんてないんだよ。だって肩こりという言葉がないんだから」という発言をしたことがありますが、そんなことはありません。きちんと辞書に載っています。

私は辞書を引いたときの感動をいまでも非常によく覚えています。というのもスティフ(stiff)と引くと他ならぬ「拘束」という意味だと書いてあるのですから。私は「肩こり」の「凝り」という言葉もいい言葉だと思いますが、「こり」=「スティフ」といわれると感心せずにはいられませんでした。なぜなら、人間の身心をまさに全身心にわたって苛むものこそ他ならぬ「こり」であり、それがじつは癌以上に恐ろしい「拘束」=「スティフ」なのですから。

というわけで、「拘束双芯」から出発した「拘束は必要なんだ」という叫び=ベクトルが行き着いたところが「肩こり」なのです。そしてそのベクトルに気がついたとき、ようやく「拘束」解体に向けての大レースが始まるのです。

少々話が逸れますが、「♪これから始まる大レース~♪」のフレーズで始まる「走れコウタロー」というソルティ・シュガーの曲をご存知でしょうか? 山本コウタローさんの曲だと思っている人が多いようですが、あの曲をつくったのは、私の高校時代の親友で池田謙吉という男です。彼は高校卒業後、東大の経済学部に進学したのですが、関西方面で「走れコウタロー」が爆発的にヒットし始めたとき、いまでいう突然死で亡くなってしまったのです。ちょうど大学3年生のときでした……。

この話と“究極の身体”のどこに接点があるかというと、それは例の「肩こり」の話にあるのです。人が「肩こり」によって「拘束」のベクトルの向きに気がついたとき、いよいよ「拘束」解体、組織分化への大転換を迎えるのです。それはまさに「♪これから始まる大レース~♪」といえるでしょう。「拘束」は首が据わったときから始まるわけですから、そのスタートは0歳からです。そのベクトルの向きを全部反対向きにしようとするわけですから、それは総力戦が強いられる真に壮大な「大レース」になるのです。

それを行うことの意義については、原著をはじめ機会があるごとに私はたびたび語ってきたと思います。また固まった身体がたくさんの病気の原因を作り出したり、さまざまな精神的な問題を引き起こしていることも分かってきています。したがって、この「拘束」のベクトルを逆流して遡る大レースには、人間存在にとって本当に深い意味があるのです。

しかし0歳のときから膨大な時間をかけて、本人も気がつかないあいだに徹底的に「拘束」が進んできてしまったわけですから、その「拘束」を解体し溶かしていくためには絶対に次の3つの武器、すなわち「知恵」と「仲間」と「根気」が必須不可欠です。そのこともよく理解しておいてください。

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