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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
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第30回(2008.01.27 掲載)

身体意識にとっての中心

こうした身体の「中心」に対し、身体意識における「中心」はどうなっているかということですが、その前に身体意識とはなにかということを改めて確認しておきたいと思います。

人間の意識には、視覚情報を元に成立している意識系=視覚的意識と、聴覚情報を元にしている意識系=聴覚的意識、体性感覚的情報を元に成立している意識系=体性感覚的意識の3つがあります。そして身体意識というのは、この体性感覚的意識の学術的な略称なのです。

そして身体意識というのは、この3つの意識のなかでもっともプリミティブ(原初的)な意識であり、人の精子と卵子が結合した状態のときから存在していると推測できる意識なのです。したがって、人間は母親のお腹のなかでは身体意識優位な状態でどんどん成長しつづけ、胎内でかなり高度な身体意識というものを形成して生まれてくるのです。もちろん、胎内にいるときでもある程度は光や音の情報も得ているので、お腹のなかにいるときにもある程度は視覚的意識や聴覚的意識も持っています。しかし、視覚的意識や聴覚的意識が本格的に発達しはじめるのは、オギャーと生まれてからで、その後急速にこれら2つの意識系を成長させていくのです。そしてこの視覚的意識、聴覚的意識というのは、直接的に身体を舞台にした意識ではありません。そのような視聴覚的意識が幻想ではなく確固とした意識として成立できるのは、身体意識によって常に裏打ちされているからです。逆にいえば、身体意識と視聴覚的意識が切り離されてしまったとすると、視聴覚的意識にとって現実性を保証するものがなにもなくなってしまい、現実に則った認識と単なる幻想、幻覚との区別がつかなくなってしまうのです。

だから赤ちゃんというのは身体意識を手がかりにしながら、視聴覚的意識というものを現実から遊離しないように成立させていく努力をしていくのです。そしてその視聴覚的意識が、その後の成長過程において言葉やら規則といったさまざまな記号的な影響を受け、膨大に発達していくのに対し、まるで反比例するかのように逆に身体意識が先細りしていく傾向にあるのです。先に説明したとおり、身体意識というのは原初的であり、非常に強力に成立していて、しかも人間として視聴覚的意識が実態に伴う意識の作用であるかどうかの真贋性を見極める意識系にもかかわらず、脆弱化していってしまうのです。

その身体意識が大人になっても非常に色濃く、しかもある特定の構造というものをきちんと持つように成立している場合もあります。そうした身体意識を備えた人物たちが、優れた身体運動、頭脳運動、芸術活動、等々を体現する天才、達人、名人といわれる人たちだということが、私の研究によって分かってきています。

そしてそのある特定の構造を持った身体意識の代表格こそ、先ほどから取り上げている垂軸、体軸、斜軸などの「軸」なのです。これらは3本のものが1本にまとまる一方で、数え方によっては3本どころか10本にも20本にもなったりします。こうした上下方向に成立している線状の身体意識の構造を「センター」と呼んでいます。同様に下腹部の中心部にできる意識の中心を「丹田」もしくは「下丹田」といいます。また胸の中心部にできる丹田と同じようなもののことを「中丹田」といいます。

このようなものは、「センター」や「丹田」以外にももっとたくさんあることが私の研究でわかってきております。数え方にもよりますが、少なく数えても数百種類は存在することがわかっています。そしてこの「センター」や「丹田」をはじめとする数百種類の身体意識の構造は、すべて「中心」になりうるのです。

みなさん、ちょっと目をつぶってみてください。自分の身体ならどこでも意識することができると思います。ということは全身のどこでも意識を布置することができるわけです。そういう意味で、意識は身体じゅうのどこにでも展在するわけです。

では、身体の外側ではどうでしょう? たとえば背後です。10cmでも20cmでもOKです。あるいは左斜め35度後方、高さは1m、距離は50cmという空間にも意識は布置することができるはずです。ということは意識はそこに展在するのです。

このように存在する意識というのは身体のなか、およびその表面、そしてさらにはその外側の空間と、自由に展在しているのです。ですから非常に濃い意識を100とした場合、0.00000001ぐらいの薄らとした意識なら、原則としておそらく身体じゅうのどこにでも存在していると考えていいはずです。また自分の近くを他人が通ると、誰でもちょっと気になると思います。ということは、同じように身体の外側でも自分の身近な空間なら意識が存在していると推測できると思います。

相手が人ではなく、自分の周りに置いてあるものに対してはどうでしょう? すごく薄いかもしれませんが、それもやはり気になると思います。では100km先を誰かが歩いているのは気になるでしょうか? おそらくまったく気にならないと思います。

ところが100km先の原子力発電所で事故があったとしたらどうでしょう。これはそうとう気になるのではないでしょうか。ということは100km先でも意識がないわけではないのです。そして肝心なのは、100km先の原子力発電所で事故が起きたとき、単なる知識として気になるのではなく、身体的に気になるはずです。原子力発電所で事故があったと聞いたとき、まずどこの、つまり自分から何km離れた場所の事故かがすごく気になると思います。次に事故現場が100kmしか離れていないと聞いたとしたら、ものすごく身体=ボディの感じで気になるはずです。この身体感覚として気になるというのは、決して原発が何km以内だとどの程度に危険だという知識のみによるものではありません。ということは非常に薄い意識だとしても、100km先でもやっぱり身体意識が展在しているのです。そして非常に薄い意識にもかかわらず、原発の事故となるととても気になるというのはなぜかというと、それはあまりにも向こう側の刺激が強烈だからです。

つまり意識の濃淡に対し、刺激の強弱というのもあるのです。たとえば眠くて眠くて意識が朦朧としてきて、まさに布団に入ろうとしたときに、見慣れた親兄弟が視界に入ってもそのままバタンキューと寝てしまうでしょうが、いきなり目の前に恐竜が現れたとしたらいっぺんで眠気など飛んでしまうでしょう。というわけで、強烈な刺激を与えてみると身体意識が非常に遠くまで届いているということが分かります。

しかしそんな強烈な刺激など与えなくても、身体の内のことは身体の外の何倍も気になったり感じたりすることができるので、その身体意識も身体の外に比べ何倍も濃いと考えられます。

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