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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
  • ※現在は、販売しておりません。
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    より詳しく、より深くスリリングに
    「究極の身体」を体感してほしい

第26回(2008.12.30 掲載)

(前回からの続き)進化論上、人間の身体のポジションはどこにあるのか?

しかし、人間だけがこうした腕の(完全な)三次元的な自由度のある身体構造を持つことができたとしても、その代償として体幹部が箱のようになってまったく使えない身体だったとしたらどうでしょう。

みんなが感動して興奮させられた、マイケル・ジョーダン、イアン・ソープ、タイガー・ウッズ、イチロー、デイヴィッド・べッカム、インゲマル・ステンマルク、ミハエル・シューマッハetc.のすばらしい活躍は、誰一人として見ることはできなかったでしょう。またスポーツだけでなく、音楽だって、芸術だってすばらしい作品はすべて同じように見られなかったでしょうし、身近なところでは美容師だって、歯医者だって、蕎麦屋だって腕がすばらしくいいといわれる人は、ひとりもいなくなってしまうはずです。なぜなら、どの分野でも本当にいい仕事=究極に近くいいパフォーマンスを見せる人というのは、例外なく体幹部が柔らかく動いているからです。“究極の身体”ほどではないにせよ、体幹部が多少なりとも上手に使える人たちが、より優れたパフォーマンスを担っているのです。

もちろん、多少なりとも体幹部が使えたとしても、その人が無類のサボリ屋だとしたらいい仕事はできないでしょう。しかし、手脚を使うことにおいて同じような努力と技術を持っている人同士で比べたら、体幹部が動く分だけ人より優れた動きになるでしょう。そしてその体幹部が使えるようになればなるほど“究極の身体”に近づいていくのです。

ここで分かりやすい例として書道を挙げてみましょう。誰でも小学生のときに一度は体験していると思いますが、そのときのことを思い出してみてください。いま考えてみれば、いつもの自分よりもきちっとして座り、それこそ身体を箱にして、手や腕までカチカチにして筆を動かしていた記憶があることと思います。これがふつう人間が専門的な技術を身につけていくときの象徴的なスタートの姿です。だから書道だけでなく、はじめは茶道でもお花でもなんでも同じようなことが見られます。

でも修行が進んでその道の名人・達人と呼ばれるようになると、体幹部が箱のような人はいなくなります。私の知人に日本有数の書道家の方がいらっしゃいますが、その方は今にも落としてしまいそうなぐらい、最小限の力で筆を握り、いや厳密にいうと握るというより指の摩擦係数だけで筆をぶら下げているような状態で書を書きます。そのとき体幹部はというと、柳が吹く風に揺られているような感じで、ダラ~と垂れながら書いています。彼はもちろんスポーツ選手ではないので、激烈に移動運動をする必要はないわけですが、背骨・肋骨の複雑で精妙な運動という点では、トップ・スポーツ選手に勝るとも劣らないものがありますし、事実見惚れてしまうほどです。

ですから私も彼が書き終えたあとに「いまのは肋骨の何番と何番がこういうふうに開いて…」と彼の体幹部の動きを説明してあげたのです。すると彼は「だからこういう字が書けるのか」と非常に感心してくれたので、私もおもしろがってひとつの実験をやってみました。

その実験とは、私が指摘した一番動く3本の肋骨を私が手で押さえて、彼には先ほどと同じ字を書いてもらうという実験です。すると私が「肋骨がこう動くからこういう字になる」と指摘した箇所で、彼は「ああっ」と叫んで筆がピタッと止まってしまったのです。やっぱり肋骨の動きがないとその字を書くことはできなかったのです。

先ほども説明したとおり、彼は書道家ですから肋骨の運動といってもスポーツ選手のような動きの空間的幅や背骨まわりの強い筋出力は必要としません。そのために書道のような工芸、芸術活動や日常の作業労働などは、体幹部の動きに気がつきにくくなってしまうのでしょう。でもその中身をきちんと見ていけば、高度なスポーツとまったく同じように、体幹部の背骨を中心にした肋骨やそのまわりの筋肉の絶妙かつ精妙な運動が行われていて、それによっていわゆる高等芸が支えられているというのがよく見えてくると思います。

『究極の身体』第3章「背骨」で高岡英夫が伝えたかったこと

さて、これまで見てきたとおり原著の第3章「背骨」の項は、原著のひとつの大きな山場の項です。そのなかでも非常に重要なメッセージをここに引用したいと思います。

『こうした文化がどういう方向に発達しなければいけないかという、進化論的なテーマも生まれて来るわけです。

ではどんな方向に発達させなければいけないのでしょうか?

これまでみてきた「運動進化論」の視点で言えば、答えははっきりしています。人間は魚類~爬虫類と哺乳類が実証したあの二方向の波動運動を使うべき存在なのだから、それを発現させる方向に文化を発達させなければなりません。そうでなければ人間の身体性というものと、その性質、メカニズム、可能性とが矛盾してしまいます。もしその矛盾した方向に向かうとするなら、人類は幸福にはなれないでしょう。なぜなら人類の持っている可能性を発揮せずに身体性に矛盾した運動・行動を行っていれば、必ずストレスが発生し、それはやがて人類全体の巨大ストレスになるはずだからです。』

(高岡英夫著『究極の身体』講談社)

つまり人間は、手と腕の自由度を誇り、その手と結びついた脳の支配領域の広さといったものまで含めて、先に説明したような多用な文化を生み出してきたわけですが、それを生み出しっぱなしにしてはいけないということです。もし文化を生みっぱなしにしてしまうと、人間は本来持っている身体性に矛盾した生き方を続けていくことになってしまうのです。そしてそれは必ず根深い根本からのストレス発生の原因になり、そのストレスが溜まりすぎればやがて社会全体を巻き込んでついには人類を滅ぼしてしまうほどの強大なストレスになっていくというのが私の考えなのです。

では人類はどうすればいいのか。そのことについての積極的なメッセージも原著(旧・運動科学総合研究所版のみ掲載。講談社版には掲載されておりませんが、大事な箇所なので引用させていただきます)に書いてあるので紹介しましょう。

『生けるこの身体そのものは何人にも否定しがたい存在です。身体より否定しがたいものはないのですから、その身体から人間の文化というものの必然的な方向性を見い出し得る論理が見つかってくれば、これほど役に立つことはありません。

したがって身体、及び身体を生かすための身体運動の論理というものを、人間は極めなければならないのだと考えます。これは人類としての言わば責務というものであって、身体と身体運動を極めずして正しい文化のあり方の議論というものはあり得ません』

(高岡英夫著『究極の身体』運動科学総合研究所)

これが私が原著『究極の身体』の第3章でもっとも伝えたかったことなのです。

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