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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
  • ※現在は、販売しておりません。
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    「究極の身体」を体感してほしい

第24回(2008.12.16 掲載)

(前回からの続き)手脚がなければ背骨が器用に動く!?

このことを踏まえて、思い出してもらいたいのが西部劇の映画です。西部劇では主人公が敵役に捕らわれてしまうというストーリーがよくあります。そうしたとき、たいてい主人公は手脚をグルグル巻きに縛られて納屋か馬小屋などに閉じ込められます。こうしたとき、見張りの者が見えなくなると主人公はどのような行動に移るでしょう? ここが肝心なところですので、みなさんもじっくり考えてみてください。

そうです。縛られたまま身体をグニャグニャ、モゾモゾさせて魚状態になるのです! その動き方の上手下手は俳優さんによって差がありますが、このシーンからも「運動進化論」的な視点は持てるのです。

つまり紐などで縛られて手脚を動かすことができなくなると、人間は背骨のことを思い出すのです。思い出すといっても「背骨は26個あって、仙骨尾骨から動かしはじめて、云々かんぬん」と考えるわけではありません。むしろ考えなくてもグニャグニャ、モゾモゾ動かせるというところに大きな意味があるのです。

私は若いとき西部劇を見ながら「ああ、やっぱり人間は魚だったんだ」としみじみと思ったわけですが、そんなおかしなことを考える青年はおそらく私ぐらいだったでしょう……。

なぜ“究極の身体”になるのは難しいのか

というわけで、“究極の身体”でない人でもロープで縛られたりして手脚の自由を奪れ、そのロープを緩めるために身体のあっちを引っ込め、こっちを引っ込めと一心不乱になって全身運動しているときは、みんな魚に戻っています。そういう観点で見るのなら“究極の身体”というのは、誰にでも可能なものなのかもしれません。なんとも夢と希望を与える話ではないですか。

でもコートに立ってラケットを持たされ、飛んでくるボールを打て、といわれたらどうでしょう。手脚がより自由に動く状態になって、早速に手脚を使ってのアクションが要求されると、多くの人は途端に体幹部の背骨を使えなくなってしまうのです。

極論すれば、“究極の身体”とレギュラーの身体の違いとは、これだけのことともいえるのです。そんなことが“究極の身体”とレギュラーの身体の違いなの? と疑問に思うかもしれませんが、「手脚が自由で早速になにかをする」という状態というのは、じつに身近にたくさんあるのです。

たとえば、電話がかかってきたとき受話器を取るのもそうですし、冷蔵庫からなにかを取り出して扉を閉めるとか、コピーを取るとか、名刺を取り出すとか、乾杯するとか、ラーメンを食べるとかetc.つまりなんでもかんでも片っ端から「手脚が自由で早速になにかをする」という状態なのです。

ここで重要なのは「早速に」という点です。西部劇のヒーローのように手脚を縛られない限り、みなさん普段は手脚が自由です。ほとんど一生の間、手脚は自由に動くわけですから、手脚が不自由にならないと背骨を思い出すことができないふつうの人は、それだけで“究極の身体”を手に入れる可能性の大半は失ってしまうのです。そしてさらに「早速」です。これがまた非常に厄介な存在なのです。

逆にもし「早速」という条件がなければ、話はずいぶん簡単になります。たとえばテニスをやるときに、相手から飛んでくるボールが空中で一時停止してくれたらどうでしょう。「あっ、背骨を思い出すんだったな」ということで、おもむろに「ゆる体操」をはじめられます。それでようやく背骨の意識が高まって、ラケットを手にすると、手の意識が強くなって背骨の意識が薄れてしまいます。それでもう一度「ゆる」をやりはじめて背骨の波動運動がラケットにまで伝わるようにして、それから球打ちの練習を何遍もやって……、この間ずっと飛んできたボールも相手選手も待っていてくれる、これが「早速」でない状況です。こんなことはもちろん現実ではありえない話です。

ですから人間は日々「手脚が自由で早速になにかをする」という要請のなかで動いているのです。その結果、「手足の自由」と「早速」という2つの条件のために、ほぼ決定的に魚類のような背骨の動きが使えなくなってしまうのです。

では“究極の身体”に近い人は? というと、「手脚が自由で早速になにかをする」という状態のなかでも、あっぱれ背骨が使えているのです。

あまりに身近な例が多かったので、いつになったら話の核心になるのだろうと思われている方もいらっしゃるかと思いますが、じつはもうすでに核心に入っています。「手脚が自由で早速になにかをする」という条件は、人間の運動全体になにを起こさせるかというと、運動構造の根本的な方向づけを起こしてしまうのです。その具体的な運動構造とは、私のいう「被制御四肢系運動」(※1)です。これは文字どおり、手脚=四肢の運動によって全体の運動が制御されてしまうようなシステムの運動のことです。そしてこの「被制御四肢系運動」こそ、人間がいつ何時でもおかれている「手脚が自由で早速になにかをする」という条件下から生まれる運動なのです。

この「被制御四肢系」に対し、“究極の身体”あるいは“究極の身体”に近い存在の人が行っている背骨を中心にした運動のことを「被制御体幹系」もしくは「被制御脊椎系」(※2)といいます。

※1 被制御四肢系運動:一般向けには「四肢主導系」といい、原著でも「四肢主導系」という言葉を使っていますが、学術的には「被制御四肢系」といいます。

※2 被制御体幹系(被制御脊椎系):これも学術用語で、一般向けには「体幹主導系」もしくは「脊椎主導系」といいます。(『究極の身体』(講談社)99頁参照)

原著『究極の身体』の第3章「背骨」の項でも、この「被制御四肢系」と「被制御体幹系」(原著では「四肢主導系」と「体幹主導系」)は非常に重要な概念として取り上げていて、チーターなどの四足動物を例に挙げて説明しています。ここで私は「四足動物でもゆっくり歩いているときはポコポコと手脚を動かし、その手脚の動きに協調するように体幹部を使っているに過ぎない」という表現をしています。と同時に「歩いていた四足動物が駆け出して、高速運動になってくると手脚と体幹部の関係が逆転し、背骨を中心とした体幹部の運動に手脚が従う動きに変化する」とも書いています。つまり低速状態では「四肢主導系」、高速になると徐々に「体幹主導系」になるというわけです。

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