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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
  • ※現在は、販売しておりません。
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    「究極の身体」を体感してほしい

第15回(2008.10.14 掲載))

幼少期の高岡英夫の人物図

さてもう一度上半身の簡易なイラストを見てください。このなかに肋体と肩包体を書き込むとイラスト④のようになりますね。これを踏まえたうえでイラストAを見てください。これはじつは私自身が幼いときによく描いた人の絵です。まわりの大人からは「この絵、なんだか気持ちが悪いからもう描かないで」とよくいわれたのですが、私にとっては面白いのでよく描いた記憶があります。たしかにふつうの人が線で書く人の絵と比べると、そうとうヘンな感じがしますが、これがあの頃の私の持っていた身体のイメージだったのでしょう。当時の実感を思い出してみても、あの頃はいまの私よりもずっと深いところまで組織分化できていたので、あのような絵を自宅の廊下の隅にびっしりといたずら書きしたりしたのでしょう。

  • 絵の描き方で組織分化が分かる②
  • 絵の描き方で組織分化が分かる②
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もっとも1~2歳の頃なら誰しも筋肉と骨格が分化して働いているので、私だけが特別な子供だったということはないでしょう。ただこのような簡易な絵が描ける年齢まで、そうした傾向が強く残っていたというのは少し例外的だったかもしれません。

ともかく、その頃は非常に身体がやわらかくて、固体というか、固まりという実感が身体のどこにもありませんでした。それがこのようなちょっとヘンな絵を描かせる原因だったのだと思います。

もう一度イラストAをよく見てください。脚の分岐点、つまり股の位置が異常に高いところにあります。これは胸椎の12番から始まる大腰筋によって脚が吊り下げられている感じの現れでしょう。また体幹部が箱状にならなかったのは背骨の意識が非常に濃かったからでしょうし、半円状の腕らしき線は腕と肩包体がいっしょになったものをなんとなく絵的に表現したのではないかと思っています。

この私のイラストを文字に直すとすると、一番近い文字は「大」という字ではないでしょうか。この「大」という字に背骨、あるいは「センター」を書き込んでしまうと「木」という字になります。でも「木」の字の真ん中の縦棒は、しっかり固定されてしまっています。しかし人は動物というぐらいですから木と違って動き回るので、機能としての「センター」はあっても形として「これだ」といえる実体はありません。だから「木」の字の縦棒が点線にでもなれば、もっと人らしい感じになると思うのですが……。

一方「人」という字は「大」にくらべて横棒が一本足りません。でもこの横棒こそ、肩包体の象徴ですから本当は「人」という字よりも、「大」のほうが人間を表すのにふさわしいような気もしますが、皆さんはどう思われますか。

実際に肩包体ができてくると、肩関節のところで箱状の体幹部と腕が分かれるという身体ではなく、左手の手先から体幹上部を含む右手の手先までが一体で、その下の体幹部は箱状ではなく背骨を中心とした紡錘形の身体があって、しかもセンターが潜在的にあるという感じになります。そしてそのイメージを簡易な図にすると、幼少期の私が描いたイラストのような絵になるのではないでしょうか。

先ほど説明したとおり、より幼い子供時代のほうが具体的能力は低くても本質的能力は高いので、一般的に、身体もよりいい身体をしているといっていいと思います。

手脚はジョイント

みなさんにとって「身体を動かす」というのはどんなイメージでしょう? 一般的に「身体を動かす」=「手脚を動かす」という実感が強いのではないでしょうか。より正確にいうと手・腕・足・脚といったものを動かすというのが、いわゆる身体を動かすということの実感になっていると思います。

そこで今度は魚になったつもりで身体を動かしてみてください。どうですか? まず手をパタパタさせてヒレを動かす真似をした人がおられるのではないでしょうか。しかしそもそもそれは間違いで、魚にとっての身体運動の実感ではヒレの動きなどまさに枝葉末節。実際は体幹部による波動運動こそ身体運動の実感で、人間でいえば手脚の自由を奪われた状態こそ魚の運動そのものといえるのです。おそらくみなさんは「手脚がない状態? それではなんの身体運動もできないじゃないか」と思うでしょうが、でもその状態こそが魚の実感なのです。渓流を俊敏に泳ぎ回るあのイワナもこうした実感でしょうし、あの激烈で俊敏で美しいカジキマグロの運動もこの状態から生み出されているのです。

ということは、人間はたとえ手脚をもぎ取られても、魚のような見事な運動ができる身体をそもそも与えられている、ということがいえると思います。なぜなら骨格標本を見ればわかることですが、人間も体幹部は魚と同じような構造を持っているのですから。

ではわれわれ人類と魚類はどこが違うのかというと、それは環境が違うのです。魚類は多くのことを水がフォローしてくれるので、体幹部にちょっとヒレを生やすだけですべて事足りてしまいます。一方、人類やその他の動物は陸上に暮らしているため、地面などとのジョイントに手脚が必要になるのです。人間が地面を歩くためには、地面と体幹部のジョイント、つまり脚が不可欠であり、一方、モノを取ろうとするために、手というジョイントを得たのです。

こういう見方をすると、手脚というジョイントをさらに合理的に体幹部とジョイントするために肩関節や肩甲骨、骨盤に仙骨などを備えたということが理解できます。これは人間に限らず他の四足動物や爬虫類にもいえることなので、魚類から陸上生物への進化はジョイントの進化ともいうことができるでしょう。しかし例外もあります。それは四足動物から進化したと思われる鯨の仲間たちです。鯨の骨格を見てみると脚がなくなってしまっています。大事な大事な骨盤ですら小さな骨片としてしか残っていません。

つまり水中から陸上に上がったわれわれ人類にとって決定的に重要だという実感がある手脚も、陸上から再び海に戻っていった鯨には必要ないということなのです。これはたいへんに感動すべき話だと、私は思っています。

でも背骨を見てください。背骨だけは魚類にもあるし、爬虫類にも四足動物にも鯨にもそしてわれわれ人類にもしっかり継承されています。同じように頭と肋骨もみんなに備わっています。つまり、骨格から考えると大事なのは頭から背骨、そして肋骨に尽きるのです。

したがって人間の本質も頭から背骨、肋骨にあるということなのです。だから何千万年という長い年月をかけさえすれば、人類も鯨のように再び海へ戻ることもできるでしょう。でもその一方で人類はこれだけの文化を作り上げ、それを謳歌(おうか)しています。それを可能にしているのも人間の身体であって、その身体のすばらしさというものも次章以降で語っていきたいと思います。

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